サントリーの礎を作った鳥井信治郎
現在再放送中のNHK連続テレビ小説「マッサン」(2014年のドラマ)で堤真一が演じている鴨居欣次郎。豪快でエネルギッシュな「鴨居の大将」は、12年前の初放送時も視聴者の人気を集めた。このキャラクターのモデルとなったのが、サントリーの前身・寿屋の創業者、鳥井信治郎(1879~1962年)である。ドラマでは描かれなかった史実の姿を追う。
鳥井信治郎は明治12年(1879年)1月30日、大阪市東区(現・中央区)で両替商・鳥井忠兵衛の次男として生まれた。「母こま女」は信仰心の厚い人で、その教えが信治郎の人格形成に大きな影響を与えた。評伝『鳥井信治郎伝 美酒一代』(杉森久英著、新潮文庫)にはこんなエピソードが記されている。
幼い頃、母に連れられて天満天神へ参詣した際、並んでいる物乞いに金を与えて感謝される様子を見物しようと後ろを振り返ると、母は荒々しく手を引き、決して振り返ることを許さなかった。普段は優しい母が、そのときだけは人が変わったように厳しい表情になる。「人に施しをする者は感謝を期待してはいけない」という教訓だったのである。
後年、事業に成功した信治郎は、道端で物乞いをする人を見れば財布をはたいて施し、感謝の声を耳に入れず逃げるように立ち去った。奨学資金に多額の寄付をしても、金の出所が自分であることを学生に知らせないよう繊細な心遣いをした。
薬種問屋で洋酒の調合を学ぶ
13歳で薬種問屋・小西儀助商店に丁稚奉公に入り、輸入ワインやウイスキーなど洋酒の調合技術を学ぶ。この経験が、後に「大阪の鼻」と呼ばれる鋭い嗅覚と味覚の基礎となった。明治32年(1899年)、弱冠20歳で独立し鳥井商店を創業。当初は輸入ワインを販売したが、日本人には酸味が強すぎて受け入れられず、日本人の味覚に合った洋酒の開発に着手する。
明治40年(1907年)、スペイン産ワインをベースに、日本人好みの甘味と美しい色合いを追求した「赤玉ポートワイン」を発売。太陽をイメージした「赤玉」の名は日の丸とも重なり、後に「サントリー」の社名は、太陽(SUN)と鳥井(TORII)を組み合わせた造語となった。
日本初のヌードポスターで宣伝
信治郎は丸善から外国雑誌をどしどし購入し、「サタデー・イヴニング・ポスト」を欠かさず購読するモダンな人物だった。デザインについては人並み外れた熱意を持ち、森永製菓から引き抜いた広告の奇才・片岡敏郎とともに、大正11年(1922年)には日本初となるヌードポスターを制作。モデルは寿屋が結成したオペラ団「赤玉楽劇座」のプリマドンナ、松島栄美子だった。上半身を露出した女性がワイングラスを手にするポスターは世間の度肝を抜いた。
大正後期には赤玉ポートワインは国内ワイン市場の60%を占めるまでに成長。「マッサン」で鴨居商店が「太陽ワイン」のヌードポスターで起死回生を図るエピソードは、この史実に基づいている。
赤玉の成功で資金を得た信治郎は、本格的な国産ウイスキーの製造に乗り出す。当時、ウイスキーは英国でしか造れないとされ、周囲の反対は圧倒的だった。信治郎はロンドンに赴任する三井物産の中村幸助に醸造技師の招聘を依頼。半年後、醸造学の権威ムーア博士が日本行きを承諾したとの便りが届いた。
鳥井と“マッサン”との出会い
信治郎はムーア博士の指示に従い、北海道から九州まで全国各地を調査。これはという土地が見つかるたびに水をスコットランドに送り、水質検査と試験醸造を繰り返してもらった。大正12年(1923年)春、ついに一つの土地が浮かび上がった。大阪と京都の境界線にある山崎である。北に天王山を背負い、木津川・桂川・宇治川の三川が合流する湿潤な環境は、スコッチウイスキーの故郷ローゼス峡付近の風土によく似ていた。
ところが来日が近づいた頃、ムーア博士は仲間から意外な話を聞く。スコットランドでウイスキー製造を学んだ日本人がいるというのだ。博士は考えた。ウイスキー技師はディスティラー(蒸留技師)とブレンダー(調合技師)に分かれ、ブレンドの技は才能がすべてで誰も教えない。この日本人が真面目に取り組んだなら蒸留については一応のところまで行っているはず。あえてこの日本人に賭けてみてはどうか――。その人物こそ、「マッサン」で玉山鉄二が演じる亀山政春のモデル・竹鶴政孝(1894~1974年)だった。
信治郎は竹鶴に年俸4000円という破格の条件を提示した。大学卒の月給が40〜50円の時代、スコットランドから技師を招くつもりで用意していた額と同じだった。当時の人件費の1000円が約259万円だとすると、年収1000万円超という計算になる。「マッサン」では鴨居が政春を熱烈にスカウトする場面が印象的だが、史実でも信治郎が竹鶴の元を直接訪ねて口説いたとされる。
破格の年俸で、竹鶴をスカウト
大正13年(1924年)、約200万円の巨費を投じた山崎蒸溜所が完成。昭和4年(1929年)、国産ウイスキー第1号「サントリー白札」が発売された。しかしスコッチ特有のスモーキーな香りが「焦げ臭い」と不評で、経営は苦境に陥った。
信治郎の経営姿勢は「家族的で、温情主義的」だった。大正時代から家族手当を支給し、工場では当時としてはぜいたくな給食を提供。社員が病気になれば治療代や入院費を負担した。まだ小僧(雑用をする少年)を二人しか使っていなかった時代、小僧の部屋に南京虫が出ると聞くと、夜更けに蝋燭を灯して柱の割れ目や戸障子の隙間を覗きながら虫退治をした。目を覚ました小僧が主人の四つんばいの姿を見てうれし泣きをしたという。
一方で厳しさも併せ持っていた。工場の棚の上を指でなでてホコリがつくと「人さまの口の中へ入るもんを製造しとるんや」と責任者を叱りつけた。黒いトンビを着て工場の中を縦横に駆け回る姿は「まるで蝙蝠がはためいているよう」だったという。
竹鶴は10年で退社、ニッカを創業
昭和9年(1934年)、10年の契約期間を終えた竹鶴は寿屋を退社し、北海道余市で大日本果汁(後のニッカウヰスキー)を設立した。「マッサン」ではウイスキーの方向性をめぐる対立が強調されたが、竹鶴自身はどう振り返っていたのか。
竹鶴の自伝『ヒゲと勲章』(日本経済新聞社)にはこう記されている。
「私が摂津を出てから寿屋に入社し、その後、独立した因縁から、私が鳥井さんとけんかしたのだろうといわれ、はてはウイスキーしか知らぬ頑迷者とのレッテルをはられてしまった」。
竹鶴は世間の誤解を解くために筆を執り、鳥井の熱意に惹かれて入社したこと、工場建設に関して一切干渉されなかったことを明かしている。
「サントリーはサントリーの方針で経営していることだ。私は自分の信念――日本のウイスキーを世界的レベルに引き上げることだけを考え」と、互いの道を尊重する姿勢を示した。
竹鶴退社後、信治郎は長男・吉太郎とともに試行錯誤を重ね、昭和12年(1937年)、「サントリーウイスキー12年」を完成させた。亀甲模様の角ばったボトルから「角瓶」の愛称で親しまれ、大ヒット商品となった。
朝ドラでは描かれない後半生
「マッサン」では政春が退社した後、鴨居の出番は大幅に減り、戦時中・戦後・晩年は描かれなかった。しかし史実の信治郎には、まだ波乱の人生が続いていた。
昭和15年(1940年)、後継者に据えていた長男・吉太郎が急逝した。まだ33歳だった。病名は心臓性喘息による心筋梗塞。しかし診断の決定が遅れたことが命取りになった。信治郎は葬儀の席でも「日本の医学は、なっとらん」と激怒したという。すでに妻クニを亡くしていた信治郎にとって、最愛の息子を突然失った衝撃は計り知れなかった。
妻と長男を相次いで亡くす
物事にくよくよしない性分の信治郎が、このときばかりはあとあとまで悲しみ、「片腕をもぎとられてしもた」と人前もはばからず嘆いた。同年11月には実兄・喜蔵も死去。若い頃さんざん遊んで尻拭いの面倒をかけた兄だった。愛する者たちが次々と逝く中、信治郎は事業へ没頭していった。「マッサン」で鴨居の長男・英一郎が物語中盤で亡くなる展開は、吉太郎の早世がモデルとみられる。
翌昭和16年(1941年)12月、日本は太平洋戦争に突入。士気の鼓舞に酒が、近代兵器の燃料にアルコールが不可欠となり、寿屋の事業は軍需品として拡充されていく。昭和19年(1944年)には海軍大臣から軍需会社に指定され、「赤玉ポートワイン」や「サントリーウイスキー」は軍納に限られた。
66歳で終戦を迎え、事業再起動
そんな中、海軍から航空食用としてビタミンP入りのウイスキーを作るよう命じられた。現場が苦心して作り上げた試作品を一口飲むと、信治郎は顔をしかめてこう言った。「ウイスキーは、薬やないで。楽しんで飲んでもらうもんや。こんなもん出したら、商人の恥や」。そのウイスキーはとうとう納入しなかった。軍命に逆らってでも本物を守る。信治郎は商人である前に、いい製品を作りたいという一念に燃えた職人だった。
昭和20年(1945年)3月、大阪大空襲で本社が全焼。4月には大阪工場も設備の大半を失った。比叡山の熱心な信者だった信治郎は「うちの工場には、爆弾なんか落ちまへんわ」と信じていたが、現実は厳しかった。しかし山崎蒸溜所だけは守り抜いた。
終戦の日、海軍命令で計画していた臼杵工場の地鎮祭が行われていた。祝いの酒を飲み始めたところで玉音放送が始まった。多くの国民が敗戦のショックに打ちのめされる中、66歳の信治郎は逆に動き出した。会社組織を解体・再編し、米軍の先遣隊が大阪に進駐すると司令部に乗り込んでウイスキーの取引を持ちかけた。「日本はきっと復興する」と信じていたのである。
サントリーのウイスキーが定着
戦後、「安くてもしっかりした品質のお酒を」との思いから昭和21年(1946年)に「トリスウイスキー」を発売。高度経済成長期には「トリスバー」が全国に広がった。昭和25年(1950年)には「サントリーオールド」、昭和35年(1960年)には最高級品「サントリーローヤル」を発売し、日本にウイスキー文化を根付かせた。
昭和36年(1961年)、82歳で会長に退いた信治郎のもとに、次男・佐治敬三がビール事業への進出を相談に訪れた。信治郎は「人生はとどのつまり賭けや。やってみなはれ」と申し渡したという。この「やってみなはれ」は信治郎の姿勢を象徴する言葉として広く知られるが、必ずしも同時代の史料に頻出する言葉ではなく、後世の企業広報によって象徴化された側面もある。しかし、国産ウイスキー製造という前人未到の事業に踏み出した信治郎の判断は、まさにこの精神を体現するものだった。
82歳で引退、翌年に大往生
昭和37年(1962年)2月20日、鳥井信治郎は死去。享年83。くしくもその約2週間前、ヌードポスターのモデル・松島栄美子が40年前の自分の姿を新聞で発見し名乗り出ていた。信治郎の死を知った松島は往時を懐かしんだという。
信治郎の死後、寿屋はサントリーへと社名を改め、「山崎」「響」「白州」といった銘柄が誕生。「マッサン」放送の年には「シングルモルトウイスキー山崎シェリーカスク2013」が『ウイスキー・バイブル2015』で世界最高のウイスキーに選ばれた。母から受け継いだ無私の精神、本物へのこだわり、そして竹鶴との出会い。信治郎の挑戦は、100年の時を経て実を結んだのである。