ついに出家、「平家物語」の祇王寺を再興

1934(昭和9)年、照葉は奈良県檀原市久米町にある久米寺で得度し、高岡智照尼となった後、無住でひどく寂れて檀家もいない祇王寺に入った。その際にずっと近くにいた又従兄弟の高島清一という男もともに入庵、高島は寺男となった。口さがのない人たちは色男だと噂したが、そのような関係ではなかった。

智照は篤志家の喜捨や短冊の揮毫などで生計を立て、元鼈甲職人の高島は茶筅を作り全国に顧客を持った。祇王寺は拝観料をとらなかったが、観光客が仏間の障子を破ったり智照にカメラを向けたりすることが増え、1964(昭和39)年からとるようになり、生活が安定した。

出家し高岡智照となった照葉
出家し高岡智照となった照葉(写真=『アサヒグラフ』1948年10月13日号より/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

早く世を去りたいと願うが、平成まで生きる

1973(昭和48)年11月に高島が死去。11年後に出版された『花喰鳥 京都祇王寺庵主自伝』のあとがきには「70歳で死ねたら……80歳で死ねたら……今年こそは、今年こそはと頭で思うだけ」と書いたが、それから10年生きて1994年(平成6年)10月22日に98年の天寿を全うした。

なお、1938(昭和13)年の夏、突然萩原が祇王寺に現れた。白い麻の服を着こなしてさっぱりとした笑顔で「あの時は、いろいろとあなたにご迷惑をおかけしました。お元気そうで一安心です」と言い、当時貴重な食料品や石鹸を置いていった。その後、出世して実業家になったという。

平山亜佐子『戦前 エキセントリックウーマン列伝』(左右社)
平山亜佐子『戦前 エキセントリックウーマン列伝』(左右社)

また、照葉が唯一結婚した相場師の小田は1942(昭和17)年、よれよれの国民服を着てこれまた祇王寺にやってきた。出兵前の挨拶に寄ったとのことで「どうせ野たれ死にするなら、南方へ行って好きなアメリカ人に撃たれて死にたい、今日は今生の別れに来た」という。戦後、小田の上官より小田がニューギニアで戦死したこと、生前「わしの魂のいく所はたつ子の傍以外にない」と話していたことを知らされた。

照葉は常に男に悩まされ振り回されてきたが、男運がないというよりも、近寄る男を狂わせてしまうのかも知れない。

そのように生まれついた女が安らぎを得るためには尼になるしかないのだろうか。なぜ女が頭を丸めなければならないのか。

男性中心社会の限界として、なんとなく釈然としないものがある。

平山 亜佐子(ひらやま・あさこ)
文筆家

文筆家、挿話収集家。戦前文化、教科書に載らない女性の調査を得意とする。著書に『20世紀破天荒セレブ ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝 莫連女と少女ギャング団』(河出書房新社、ちくま文庫)、『戦前尖端語辞典』(編著、左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)、『明治大正昭和 化け込み婦人記者奮闘記』(左右社)など。