女優としては評価されず、自伝を出すが…
萩原がバー勤めを嫌ったために、照葉は今度は自らの意思で出雲照葉という名で松竹映画『奔流』に出た。しかし評判が悪かったためにその後の仕事がないので、東京日日新聞記者に相談。
書きものを勧められ『サンデー毎日』や『週刊朝日』に原稿を書き、作家の村松梢風を紹介されて自伝『照葉懺悔』も出した。また、中央公論の嶋中雄作に借金を頼み、なんとか食い繋いでいたが、一向に働こうとしない萩原にだんだん愛想が尽きてきた。
大阪に仕事のあてでもあるかと出かけたが、神戸でまたもや芸者になるしかなかった。
1928(昭和3)年2月にお披露目を済ませたが、萩原が訪ねてきてしまい、男がいるとわかると置屋の主人に脅されて襲われそうになった。照葉は着の身着のままで逃げ出して、大阪の知り合いのお茶屋に駆け込んだ。そこではちょうど道頓堀の中座の前にバーを1軒買ったからマダムにならないかとの依頼。照葉は2つ返事で承諾した。
再び芸者→バーのマダム→故郷の奈良へ
同年6月15日に「テルハの酒場」がオープン。大阪となれば顔の広い照葉、客は絶え間なくやってきて店は大繁盛した。しかし10月のある日、客に嫉妬した萩原が店で暴れたため、またもや照葉は着の身着のままで逃げ出して奈良の従兄弟夫婦の家に身を隠した。
萩原が方々を探しているという噂を聞き、従兄弟夫婦宅の敷地内の奥の蔵に身を潜めて暮らしていたが、とうとう突き止められた。萩原は10日間母屋に通い、「一生奈良にいる気ならそれでもいいが、その代わり奈良を一歩でも出たら承知しない」と言って1000円用意すれば帰ると言い捨てて去った。照葉は知り合いの記者に相談し、萬里閣書房(後に自伝を出版)に用立ててもらって萩原に返した。しかし、この1件でつくづく我が身を反省した。
照葉は従兄弟夫婦の敷地内の蔵で質素に生活をしながら、俳句を覚えて「ホトトギス」の同人になった。また、嶋中雄作から毎月50円の原稿料を出すから何か書きなさいとの申し出を受け、原稿を書き始めた。置屋で嫌がられた文芸趣味がこんなところで役立った。近所の観音様に参拝することも増え、出家について考え始めた。