※本稿は、黒田基樹『羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像』(平凡社新書)の一部を再編集したものです。
大河ドラマ監修のため秀長の生涯をまとめた
羽柴秀長についてはよく、秀長が生きていたら豊臣政権の滅亡はなかったのではないか、といわれることがある。2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)の時代考証をするにあたって『羽柴秀長の生涯 秀吉を支えた「補佐役」の実像』(平凡社新書)を執筆してみると、その見立てはあながち間違っていない、という感を強くした。秀長が果たした役割を認識すると、むしろその死後に、それらの役割を誰がどのようなかたちで引き継いでいったのか、ということがみえてくる。そうするとその後の政権の変容の在り方がみえてくるようになる。
秀長は、秀吉の軍事行動において、常にといっていいほど、別編成軍の大将を務めた。秀長生前でその役割を務めたのは秀長の他には、秀長に次ぐ一門衆の立場にあった甥の秀次しかみられていないうえ、その頻度と重要性は、秀長が圧倒的であった。しかもそこでは、秀吉から細かな報告を求められ、それをもとに秀吉から指示が出されていて、秀長はそれらの指示を実行していた。
秀長はそれを見事に実現したのであったが、それは秀長にそれだけの能力があったからといえる。もし秀長にそこまでの能力がなかったなら、秀吉の「天下人」化と続く「天下一統」達成が、あれほど順調に進んだかどうかは、わからなくなってくる。
大名たちを束ね、秀吉にも率直に意見した
また政権は、諸国の大大名を統合する性格にあったが、秀長はそれら大大名のほとんどに対して、政治的・軍事的に指導する「指南」を務めていた。秀長はほぼ一人で、ほとんどの大大名を政権に繫ぎ止める役割を果たしていた。
それだけでなく、秀長は、秀吉が不快に思うような案件についても、意見できていた。秀吉の有力側近奉行には、のちに五奉行となる増田長盛・石田三成らがいたが、彼らはあくまでも秀吉の側近家臣として、秀吉の命令を遂行する役割にあり、秀吉の考えなどを変えられるような立場にはなかった。このことは従来考えられていた、政権において秀長や徳川家康・前田利家らの「分権派」と増田・石田らの「集権派」の対立が存在していたなどの見方が、根本的に成立しないことを示している。
さらに秀吉の裁決をうけるにあたっては、側近奉行において意見統一が必要で、それができていない場合、秀吉の裁決は出されず、そうした際に、奉行たちの調整役となっていたのが秀長であった。秀長は、秀吉に意見でき、奉行たちを調整できた、ほぼ唯一の存在であったことがみえてきた。
こうみてくると、秀吉の「天下人」化、その後の「天下一統」の達成は、秀長がいたからこそ可能であった、と思わざるをえない。だからこそ秀長が死去した後、政権の人的構成やそこでの役割分担の在り方は、大きく変動せざるをえなかったに違いない。そしてそれこそが、以後の政権の在り方を大きく規定したに違いない。まだ見通しでしかないが、そのなかで役割を大きくされたのが、徳川家康・前田利家・浅野長吉や、あるいは奉行たちであったように思われる。