子ども時代は理性が眠っている
ルソーの教育論の骨子の3つ目は、理性と観念についてです。これは、前者二つの根拠にもなっています。ルソーは『子ども時代は理性の眠りの時期だ』と述べています。15歳頃になり理性が眠りから覚める青年期に入って初めて、観念が通じるようになり、言葉による教育が可能になります。これは要するに、抽象的思考が可能になるということです。抽象的な思考が可能になり始めるのはおおむね12歳以降です。中学生になると算数が数学となり、変数xとyが登場します。中学1年生から抽象的概念の教育が本格的に始まるのです。しかし、中学生になれば誰でも抽象的思考が可能なのかと言えば、それは違うでしょう。xとyの登場に対応できない中学1年生は結構います。ルソーは、理性が目覚めてくる15歳頃になるまでは言葉での教育や観念を教えることは避けるべきであるだけではなく、それは害悪が大きいと主張しています。
約束がウソを生み、道徳が悪徳を生む
約束とか義務という観念を考えてみましょう。
小学校低学年でも、約束と義務という言葉自体は通じるでしょう。ですが、約束という観念は、未来を予見する能力など、かなりの抽象的思考の上に可能になるものです。なので、約束という言葉が通じたとしても、子どもが理解する約束と、大人が理解する約束との間には大きな開きがあります。
ですが、われわれ大人はその差を意識せぬまま、子どもに多くの約束をさせます。まるで多数の約束をすれば約束という観念が理解できるようになると思っているかのように、大人は多数の約束で子どもをがんじがらめに縛ります。そしてその束縛力を利用して子どもを大人の思い通りの方向へ誘導しようとします。しかし子どもは約束を大人ほどには理解していません。不十分な理解のままで約束をさせられるので、当然ながら、気がつくと約束を破りそうになってしまうことになります。
すると子どもはどうするかと言うと、その場逃れのウソをつくことになります。つまり、約束を教えようとして、ウソを育ててしまうのです。約束をすればするほど、ウソが増えていくことになります。このように、子どもに抽象的な観念を教育しようとしても、結局は教訓ではなく悪を教えてしまうことになります。道徳を教えれば教えるほど、悪徳を育むことになるとルソーは主張します。
理性は人間のあらゆる能力を複合したものなので、最も遅れて発達します。最終到達目標である理性を用いて子どもを教育するのは、まず人格を完成させてから人格教育を始めようと言っているようなもので、論理的にまったく矛盾しています。『子どもが道理を聞きわけるものなら、かれらを教育する必要はない』とルソーは述べ、子どもが最初に研究するのは実験物理学であるのに、その前に理論物理学を研究させられる、と皮肉っています(図表2)。


