自分より他者を優先させる教育に苦しむ子たち

ルソーのこの主張は、常識とは相容れないように感じるかもしれませんが、児童精神科医の実感とは一致します。われわれ精神科医の前に連れて来られる子どもたちは、その多くが自分の気持ちや考えを表出できない状態にあります。自分の気持ちを尋ねても、言葉にならない子が多いし、言葉になる以前に自分の気持ちに気づいていないことも多く、言葉の代わりに体に症状が出る形になっている子も多いのです。それでいて、他者には気を遣い、自分よりも他者や周囲を優先して考えていることが多いです。それゆえ、基本的な治療方針は、自分の気持ちを言葉や遊びで表出してもらうように促し、それが出てきたらしっかりと受け止めて肯定してあげることになります。

治療に長くかかる例もありますが、徐々にでも自分の気持ちや考えを表出できるようになってくると、その子らしさが出てきて生き生きしてきます。すると症状はおおむね治まり、治療としては終盤になっていたりします。その治療の過程は、生物としての基本であるはずの、まずは自分を守り自分を大事にすることができず、こうあるべきとか、他者のことを考えてなど、自分よりも周囲つまり社会性を優先する考えの重圧によって、自分の気持ちや自分らしさが押し潰されていたのが、徐々に自分を優先することができるようになっていく過程です。要するに、児童精神科で行っている治療は、社会人教育によって自然人が潰されてしまっている子どもに対して、自然人を育てる、ということをしているのです。

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自然や事物からの経験を重視する

ルソーの教育論の骨子の2つ目は、言葉で教えるよりも自然や事物からの経験を重視することです。子どもは外で自由に遊ばせ、怪我せぬように細心の注意を払うことはしません。当然のことながら、大きな怪我をすることがないようには注意を払います。ですが、子どもが転んだり、たんこぶを作ったり、鼻血を出すなどの程度なら怪我を防ごうとはせず、小さな怪我などの経験をしながら、子どもは自然を先生としながら学んでいくべきだとルソーは主張します。自分が教育した子どもは、ただの腕白小僧にしか見えないだろうと言っています。

例えば、「てこ」の原理なども、生活や遊びの中で人がしているのを見たり、試行錯誤の中で発見したりする形で学ぶことが望ましく、後に理科の教科書で原理を学ぶという順番になるべきです。この順番で学べば、子どもにとっての生きた学びとなります。この考え方自体は多くの読者の賛同が得られると思います。ですが、子どもが学ぶことは無数にあるので、すべてを体験で学ばせることは現実には難しいです。そのため、われわれ大人は、多くのことを体験より先に言葉で教えようとしてしまいます。

私の子ども時代を振り返ると、遊びなどの中で発見したことは、大人からしたらごく簡単なことであっても、「俺はすごいことを発見した」と自慢に思っていたことを思い出します。そしてその気持ちが自己肯定感にもつながり、次の挑戦や頑張りの原動力にもなっていたと思います。考えてみると、先に言葉で教えるということは、発見する喜びを奪っています。真犯人を告げられてから推理小説を読むようなもので、つまらないことこの上ないです。しかし現実には、大人が子どもに教えたい知識や教訓は山のようにあります。そのため大人による教育は、どんどん言葉偏重となり、子どもは発見したり学ぶ喜びをどんどん奪われます。学ぶことは楽しくなくなり、嫌なことになり、知ったとしても生きた学びにならなくなっているのではないでしょうか。