歌麿は石燕の庶子だったという説のソース
歌麿のデビューが『ちよのはる』だとすると、過去帳の没年から逆算すれば18歳。「少年」と呼ぶにはギリギリの年齢であり、特別に早熟というわけでもない。
この後、彼がどんな作品を描き、どんな生活を送っていたかは再び闇に包まれてしまう。だが安永4(1775)年の冬、歌麿は富本正本『四十八手恋所訳』の上下2巻のうちの下巻の表紙を描いた。通説に従えば23歳、彼は北川豊章と落款している。この名は石燕の本名佐野豊房にちなむ。しかも石燕が「豊」の字を許したのは歌麿くらいしかおらず、そういう由縁が前出の庶子、養子説につながっている。
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