現代の政治家を支えるビーシュマの言葉
一例を挙げると、外務次官や国家安全保障担当補佐官の要職を務めたシヴシャンカル・メノンの著書『Choices(選択)』〈未邦訳〉に、「静かなる者は他者から信頼を得、慎ましき者は人生においてすべてを手にする」という言葉が引用されている。
これは『マハーバーラタ』に登場する主要人物のひとり、ビーシュマの言葉だ。時代は大きく異なるが、日本で言えば、聖徳太子の「十七条憲法」にある「和を以て貴しとなす」や親鸞聖人の「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という「悪人正機説」を引用するのに似ていると言えるかもしれない。
インドが国力を急速に増大させ、国際社会における地位を高めていくなかで、自国の伝統にアイデンティティを求めようとする傾向が近年強まっている。なかでも、『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』、そして『実利論』といった不朽の古典が持つ価値はいっそう高まっていくことになるだろう。

徹底したリアリズムの戦略論
『実利論』から学べることの第二は、徹底したリアリズムの追求である。これは『実利論』全体に通底する特徴であり、他者(他国)や自分(自国)を取り巻く環境に対してつねに警戒を怠らず、厳しい姿勢で臨むことが求められている。
本文には、ややもすると疑いすぎなのではと感じられる記述も散見される。それだけ当時のインドでは、建国すれば安泰というわけではなく、王や王朝が生き長らえるには、その後も熾烈な戦いを勝ち抜かなければならなかったということなのだろう(実際、王が殺害されたり、王朝が転覆されたりというケースは枚挙に暇がない)。
マウリヤ朝第三代の王アショーカは自ら仏教に深く帰依するとともに国内各地にその教えを広め、帝国の最盛期をもたらした。彼が思い描いたであろう理想が現実に展開されたわけだが、それはリアリズムにもとづいて建国とインド統一を達成し、繁栄の礎を築いたチャンドラグプタとカウティリヤの活躍があってのことだと言える。多数の国が争いを繰り返し、不安定で秩序のない状況であれば、理想を実践したくてもそうはいかなかっただろう。