会社員として炭鉱で働き、結婚・離婚

日本に着くと、父は北海道・美唄びばいの炭鉱で働き始めた。まさるさんはと言うと、生活のため、すぐにでも働きたかったが仕事先がない。そこで、三井鉱山が母体の鉱業学校の門を叩く。卒業すると花形の炭鉱に就職できる学校は競争率も高かったが、運よく入学することができた。

「学生であると同時に会社員でもあるから、給料が出たんだよ。月に500円。正規の社員が1日働いて270円で、寿司1人前が80円の時代に。それに厚生年金にも入れてくれてね」

2学年に上がると炭鉱の仕事が少し入り、月2000円を稼ぐことができた。そして卒業後、20歳で入社。厳しい仕事で苦労はあったが、仲間との絆もでき、仕事が終わると集まっては毎晩飲み明かした。1日に焼酎7合なんてザラだったとか。

7年働いたある日、ドイツへ海外赴任することが決まった。炭鉱の機械の知識と技術を磨く研修だったが、「3年間、楽しかったよ。日本人に親切で、ビールも旨かった〜」。

30歳で帰国すると、美唄の炭鉱は閉山になり、三井芦別炭鉱に行くことになった。そこではリーダーとなって、部下たちを指導した。とにかく仕事は全力投球で取り組むのが、まさるさん流だ。チームの団結は強かったと振り返る。

8年間を働くことになるのだが、その間に結婚と離婚を経験する。

12歳のとき、樺太で終戦を迎えたまさるさん。樺太を出る15歳までの3年間、ロシア人と一緒に働くことになったが、ロシア人自体は好きだったと言う。
写真=長野陽一
12歳のとき、樺太で終戦を迎えたまさるさん。樺太を出る15歳までの3年間、入植してきたロシア人と一緒に過ごすことになった。ロシア人のことは好きだったと言う。

思い描いたのとは違う家庭人の人生

「結婚するつもりはなかったけど、親が勧めたから勢いでね。嫁とは結婚式までに一度しか会ったことがないから、顔すら思い出せなかった。そんな感じだったから、うまくいかないよね」

娘と息子に恵まれたが、夫婦の関係は悪化する一方。ついに別れることとなり、2人の子供はまさるさんが引き取った。両親と同居し、仕事中は母に預けるつもりだったが、父が糖尿病で倒れて入院することに。

「初めは妹に子供たちの面倒を見てもらっていたけれど、みんな疲れちゃって。しまいには、子どもまで潰してしまうから、『別れた嫁とヨリを戻せ』と母に言われて……」

そして復縁。まさるさんが38歳の時だった。