子どもをコントロールするのが“いい母親”なのか

子どもは音量を調節できるステレオではないし、私はコントローラーではないので出来ることには限界があったんです。授業中は近くにいないのに、それでも母親の私が彼のこだわりとか、そういったものをコントロールする責任があるのかと思いました。

周囲から求められる母親としての役割と、自分がお母さんになる前に持っていた感覚があまりにも違っていました。私の考えていた母親像は間違っていたんだ、求められているのは子どもをコントロールすることで、それがいい母親なんだと思いました。逆に言うとうまく導いてあげればうまく成長するのかもしれないのに、私ができないからこの子はこういうふうに育って、先生から叱られてつらい思いをしているんじゃないかと思いました。母親はもっともっと頑張らなきゃいけないんだという、母親の責任とか役割っていう、よくわからないもやもやしたものに支配されていくようでした。

長男はのちに自閉スペクトラム症だとわかるが、入学したばかりの時期はまだ診断を受けられていなかった。この年、自閉症を含む発達障害のある人を支援する法律が施行されてから3年が経っていたものの、社会的な認知は現在ほど進んでいなかった。発達障害のある子どもたちの特性が理解されないことで、その親が子どもの行動に責任があるかのように追及されることもある。

医学的には、育て方は関係しないとされているにもかかわらず、親に対して「しつけが悪い」という言葉が投げかけられることも少なくない。

入学後しばらくして、美保さんは学校に呼び出された。首がまだぐらぐらしている次男を抱きながら向かった先で言われたのは、「こういう子どもが将来、犯罪者になる」という言葉だった。

このひと言で、美保さんはとうとう限界に達した。

やっぱり私に母としての資質はなかったと思いました。それなのに親になろうって私が決めてしまったから、子どもたちはある意味、被害者だなって。もう子どもと一緒に死んでしまおうって、そのとき思ったんです。私はこの子をコントロールすることができないから、それならば母親の責任のもとに人生を終わらせるっていうことを考えなきゃいけないのかもしれないって思いました。

息子の思いもよらない言葉

それから、家までどうやって帰ってきたのかよく覚えていない。自分ひとりが死ねば、残された息子は誰に世話をしてもらい、どうやって生きていくのかが分からなかった。その夜、美保さんは息子に「お母さんと一緒に死のう」と言った。

すると、長男から思いもよらない答えが返ってきた。

「死にたいなら、お母さんひとりで死んで。僕は生きて、将来役に立つ人になる」