2022年3月に出版された、イスラエルの社会学者、オルナ・ドーナト氏の『母親になって後悔してる』は日本でも大きな反響を呼んだ。NHK記者の髙橋歩唯さんとディレクターの依田真由美さんは、日本の女性たちの反応などをまとめた記事番組を制作。2人が取材した女性の1人は「もう母親をやめました」と語った――。(第1回/全3回)

※本稿は、高橋歩唯、依田真由美『母親になって後悔してる、といえたなら 語りはじめた日本の女性たち』(新潮社)の一部を再編集したものです。

夕日を前に手をつないでいる母子のシルエット
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「絶対に向いていなかったし、得より損ばかりしてきた」

もう母親をやめました。絶対に向いていなかったし、得より損ばかりしてきました。
母親なんてやってられない、私が20年で感じたことです。
(投稿フォームより。2022年5月)


私がまず言いたいのは、母親になるべきじゃなかったって思うことは「子どもたちが生まれてこなければよかった」ということでは決してないっていうことなんです。

子どもはもう手が離れてきていて後悔を口にしなくても済む状況になっているし、今さら言っても私自身には良いことはひとつもないと思いました。でも、「私だってできたからみんな大丈夫よ」って、なかったことにしてしまったら、結局は私の苦しかった状況を黙認することになってしまうのではないかと思いました。「後悔している母親がここにもひとりいます」と、伝えたかった。

子どものトラブル、責められるのは母親

2008年、長男が小学校に入学し、そのすぐあと、美保さんは34歳で第3子となる次男を出産した。

小学生になった長男の周囲では、相変わらずトラブルが続いた。算数の授業で、みかんとりんごがひとつずつ、合わせていくつかと聞かれたら、「みかんとりんごは違うものなのにどうやって合わせるの」と質問を投げかけ、何度も授業の流れを止めた。一度関心を持つとなかなか次のことに行動を移せず、国語の時間が始まっても、前の時間の算数に夢中で教科書を片付けることができない。先生がやめさせようとすると、自分の気持ちを表現する言葉が見つからず暴れ出した。

手を焼いた学校は、授業が妨害され、ひとりの児童のために学校生活が成り立たないと、母親に問題の解決を求めた。しかし、「ご家庭で指導してください」と言われても、どうやったら話し続ける息子を止められるのか、母親の美保さんにもわからなかった。

息子が興味を満たそうとすると、他の人に迷惑がかかってしまう。しかしその興味や行動を押さえ込んで無理やり周囲に合わせさせれば、息子は苦しみを深める。問題が起きるたび、子どもが納得するとおりにさせてあげたいという気持ちと、そう思って自分が好きにさせるから周囲に迷惑をかけているのではないかという気持ちの間で、揺れることの繰り返しだった。

子どもをコントロールするのが“いい母親”なのか

子どもは音量を調節できるステレオではないし、私はコントローラーではないので出来ることには限界があったんです。授業中は近くにいないのに、それでも母親の私が彼のこだわりとか、そういったものをコントロールする責任があるのかと思いました。

周囲から求められる母親としての役割と、自分がお母さんになる前に持っていた感覚があまりにも違っていました。私の考えていた母親像は間違っていたんだ、求められているのは子どもをコントロールすることで、それがいい母親なんだと思いました。逆に言うとうまく導いてあげればうまく成長するのかもしれないのに、私ができないからこの子はこういうふうに育って、先生から叱られてつらい思いをしているんじゃないかと思いました。母親はもっともっと頑張らなきゃいけないんだという、母親の責任とか役割っていう、よくわからないもやもやしたものに支配されていくようでした。

長男はのちに自閉スペクトラム症だとわかるが、入学したばかりの時期はまだ診断を受けられていなかった。この年、自閉症を含む発達障害のある人を支援する法律が施行されてから3年が経っていたものの、社会的な認知は現在ほど進んでいなかった。発達障害のある子どもたちの特性が理解されないことで、その親が子どもの行動に責任があるかのように追及されることもある。

医学的には、育て方は関係しないとされているにもかかわらず、親に対して「しつけが悪い」という言葉が投げかけられることも少なくない。

入学後しばらくして、美保さんは学校に呼び出された。首がまだぐらぐらしている次男を抱きながら向かった先で言われたのは、「こういう子どもが将来、犯罪者になる」という言葉だった。

このひと言で、美保さんはとうとう限界に達した。

やっぱり私に母としての資質はなかったと思いました。それなのに親になろうって私が決めてしまったから、子どもたちはある意味、被害者だなって。もう子どもと一緒に死んでしまおうって、そのとき思ったんです。私はこの子をコントロールすることができないから、それならば母親の責任のもとに人生を終わらせるっていうことを考えなきゃいけないのかもしれないって思いました。

息子の思いもよらない言葉

それから、家までどうやって帰ってきたのかよく覚えていない。自分ひとりが死ねば、残された息子は誰に世話をしてもらい、どうやって生きていくのかが分からなかった。その夜、美保さんは息子に「お母さんと一緒に死のう」と言った。

すると、長男から思いもよらない答えが返ってきた。

「死にたいなら、お母さんひとりで死んで。僕は生きて、将来役に立つ人になる」

「この子は私のものじゃない」

美保さんの頭に、生まれたばかりの長男を初めて抱いたときのことがよみがえった。

息子の言葉を聞いて、はっとしました。「この子は私のものじゃない、息子と私は別の人間だ」ってあのとき感じたんだったって思い出しました。もし息子から、「お母さん一緒に生きて」とか「僕のために頑張って」と励まされていたら私の耳には届かなかったかもしれません。「お母さんが死んでも自分は生きる」と言われたことで、かえって解き放たれたような気持ちになりました。

人に言われるまでもなく、トラブルばかりだった息子が大人になったときどうなるか、私自身も想像ができなかった。でもその息子はいつのまにか、人の役に立つという、私が思ってもみないことを考えるようになっていたことに驚きました。周りからは「どうにかしろ」とずっとずっと言われるけれど、やっぱりこの子はそのままでいいんじゃないかって思ったんです。子どもを変えないで、彼の思いを叶えられるようにありのまま育てようって。

母親になったばかりの頃には、子どもは別の人格を持つひとりの個人だとはっきり認識していたはずだった。それなのに、母親として子どものあらゆることに責任を問われるうちに、いつのまにか自分と子どもとの境界がなくなり、子どもの人生や生死にも責任を持たなければならないとまで捉えるようになっていた。生と死の境を渡りかけた美保さんを、ぎりぎりのところでつなぎ止めたのは、周囲の大人でも、行政でも医療でもなく、6歳の息子だった。

「女神のようでいて」「母性で考えればいい」

美保さんは、ここまで追い詰められる前に、育てにくい長男やアレルギーの長女のことを周囲に相談したこともあった。しかし、仕事が忙しく育児に関わる機会のなかった夫は、「考えすぎるのは良くない。頭で考えずに母性で考えればいい」と言って、一緒に問題の解決を目指すことはなかった。

家庭の外に助けを求めても状況は変わらなかった。育児カウンセラーに相談すると「お母さんが弱音を吐いてどうするんですか」と励まされ、地域の子育てセンターの講演会に行けば「お母さんは女神のようでいてください」と説かれた。母親は「やって当然」で、代わりに担える人は他にいないというプレッシャーにさらされ続けた。

美保さんは結局、日々直面する問題のひとつひとつを自分で解決していった。長男に食事を取らせるためにしたことは、「母性で考える」ことではなく、息子を観察することだった。

「ダンゴムシごはん」の発見

何も食べようとしなかった息子があるとき、赤飯を見て、「ダンゴムシごはんが食べたい」と言った。

赤飯に入った小豆が、大好きなダンゴムシに見えたようだった。赤飯を炊いて出すと、茶碗におかわりをしてもりもり食べた。そのとき、「この子を動かすのは興味なのか」と納得した。この発見から、食べられるものが少しずつ増えていった。興味を持たせるためにあさりが暗いところで砂出しをするのを見せてから酒蒸しを作ったら、これもまた成功した。ようやく食べるようになっても、今度はあさりの旬が過ぎて味が落ちるとまた嫌いになった。そうして一進一退を繰り返しながら、長男の特性との付き合い方を学んでいった。

長男がどうやったら食べるのか、長い時間をかけて学んでいきました。私は子どもの相談をするとき、どんなものなら食べるんだろうとか、問題を解決するための具体的なアドバイスを周りに求めていたんです。「母性で考えろ」とか「弱音を吐いてどうするんですか」って言うのは、私にとっては全然、解決策の提示じゃなかった。そういう言葉によって、結局自分たちもわからないことを、母親に押しつけているだけじゃないかって。「母親」ってなんて都合のいい言葉なんだろうって、思いました。

息子が「将来、犯罪者になる」とまで言われたことも、思い返せば原因は自分が「母親だから」言って良いだろうと思われたのではないかと感じるようになった。「母親だから」と浴びせられた言葉の数々に向き合う度に、責任を果たさなければと思わされてきた。そのことに、苦しさの根があったのではないかと考えるようになった。

赤飯
写真=iStock.com/marucyan
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母親をやめる

そして、たどり着いたのが「母親をやめる」という答えだった。

もし私が父親だったら、この人はここまで言うんだろうか、「私だから」じゃなくて「母親だから」、こんな言葉を簡単に言うんじゃないかと思うようになりました。

どこに行っても、とにかく言われっぱなしでした。母親として適応できないのは個人の問題で、とにかく努力不足なんだ、愛情不足なんだ、もっと努力すべきなんだって。母親でいる限り、これからもそうやって傷つけられていくんだろうなと思いました。それなら、自分を守るために、生きていくために母親をやめよう。母親をやめて、「ファン」になろうと決めました。母親だからしなければと思うと、重い重い責任がのしかかるんです。母親の責任だからじゃなくて、偶然同じ時間を生きているファンだから一緒に過ごすし、育てる。そういう思いで暮らし始めたら、すごく楽になった。ファンって、その人が存在しているだけでうれしくて、力がもらえますよね。今は、一生「担降り」しない子どもたちのファンです。
*アイドルなどの「ファンをやめる」という意味で使われる)

美保さんは、子どもを守り支える理由を、誰かから押しつけられるのではなく、自分自身で決めた。「母親」の重たいユニフォームを脱ぎ捨てると、きのうと何ら変わらないはずの自分がまったく新しい人間になったようだった。

それでもケアは続く

長男は、ノートを取ることができないという学習障害もあったが、学ぶことが大好きだった。美保さんは、学校が合わなければ別の場所を探せば良いと、定置網漁の船に乗せてもらったり、化石を掘りに行ったりと、関心のあることをとことん探求できる機会を一緒に探した。

そうして居場所を探し続けるうちに、息子は物理に関心を持ち、大学で学びたいという目標を持つようになった。書き取りではなく、パソコンやタブレットを使えば問題なく授業も試験も受けることができた。しかし日本では、受験の際に書き取りが困難な生徒への配慮を受けられる大学を見つけることは難しかった。

一方で海外には、すでに発達障害のある学生も受験ができる環境が整っている国もあることを知った。長男は外国で学ぶことを目指すようになり、努力を重ねて20歳で海外の大学の試験に合格した。現在は家族のもとを離れ、ひとり暮らしをして身の周りのことをすべて自分でこなしながら物理学を学んでいる。

周りから見ればうらやむような立派な進路を選択し、無事にひとり立ちを果たしたようにも見えるが、美保さんは息子への支援はこの先も続くと考えている。

息子は、今はひとりで生活ができていても、この先たとえば働くときには、またサポートが必要になるだろうと思っています。今も深夜に突然電話がかかってくることがありますが、母親としての責任感とかじゃなくて、困っているときに話を聞いてあげられる存在でいたいと思ってやっています。私にできないことがあれば、他の人を頼ってもらう。周りに少しずつ理解者を増やして、頼れる人を一緒に見つけていくことが、私にできることかなと思っています。

今さら励まされても取り戻せない

長男だけでなく、子どもたち3人がそれぞれ成長すると、今度は周囲から「お母さんも負けていられないね」、「自分も輝かなければいけないね」と声をかけられるようになった。

20年前、結婚したばかりの美保さんは夫婦で協力し合って働き続けるのだろうという未来を思い描いていた。第1子を妊娠して職場を辞めることになったときに夫に伝えた「必ず社会に復帰したい」という願いを実現することは、長男のケアを一手に引き受けたことで長いあいだ不可能だった。

50代にさしかかろうというとき「今から何にだってなれる」と励まされても、一度手放した仕事のやりがいや給与、待遇を考えれば損失は計り知れず、キャリアを取り戻すことはできない。養育のために独身時代の貯金は使い果たした。子どもたちを守って傷つき、睡眠も健康も引き換えにしてきた。

夢はないし輝かなくていい

友達にはこの20年、「母親になんてなるんじゃなかった」と何度も言ってきました。今まで母になってよかったと思ったことはありません。自分の人生は今、たんぽぽの綿毛が半分取れた状態みたいなイメージなんです。残りを飛ばしたらあとはしおれるだけという感じなんですけれど、それでいいと最近は思っています。一生懸命やったなって思うんです。生まれ変わったら母になる人生を選ぶかと聞かれても、私の人生はこれ一度きりなんですね。だからこそ後悔する。ずっと後悔を抱えて生きると思います。

ときどきね、「あなたの夢は何?」って今さら聞かれることがあるんですけれど、夢って持たなきゃまずいでしょうか。「何が好きなの?」とも言われますけれど、何が好きか考えることもできなかった。もう夢はないし、輝かなくていいと思うんです。自分にできる仕事があればするし、子どもだけではなくて私の存在を求めてくれている人もいるから、生きられるあいだはとりあえず生きていこう、それくらいの気持ちです。

高橋歩唯、依田真由美『母親になって後悔してる、といえたなら 語りはじめた日本の女性たち』(新潮社)
高橋歩唯、依田真由美『母親になって後悔してる、といえたなら 語りはじめた日本の女性たち』(新潮社)

長男の子育てが落ち着き、40代で就職活動をしたときは面接官に、「15年間、育児しかしていなかったんですか。周囲の助けを借りられなかったのはあなたのマネージメント能力不足ですよね」と言われたことがあったという。

15年間、周囲になじむのが難しい子どもが居場所を見つけられるようにひとり奔走し、キャリアも自分自身の喜びも後回しにしてきたのは、個人の能力が足りないせいだったのだろうか。「代わりはいない」と、子どものすべてを押しつけ、手に負えないほどの負担と犠牲を母の美保さんだけにいてきたのは、誰だったか。

「母親をやめた」という美保さんの宣言は、母親に過剰な責任を押しつけながら、それに無自覚な社会に対する小さな抵抗でもあった。

母親ももっと気軽に後悔していい

2022年12月、美保さんへのインタビューを番組で放送した。「母親をやめてファンになる」という言葉には、放送後すぐ子育て中の母たちから大きな反響が集まった。

翌年の春、美保さんからメールを受け取った。発達障害の人たちを支援する会社で秘書の職を得て、派遣社員として働くようになったという連絡だった。好んでやってきたわけではなかったものの、長年子どもたちのサポート役に徹してきたことで秘書の業務はやりやすいと感じているという。

今はそれなりに楽しく過ごしています。だからといって、社会への怒りみたいなものが消えることはありません。私自身のなかでは、無責任にも「母親やめた」って思うことで気持ちは楽になりましたが、そういうことを思ったからといって、本当に解放されているわけではないと思います。

お母さんたちはもっと気軽に後悔していいと思います。後悔のない人生を生きる人なんかいないですよね。母親になったという部分だけ後悔しちゃいけないということはないと思うので、たくさん後悔して、嫌なことは嫌だと言って、そこから何ができるか、考えられるようになればいいと思います。