摂関政治では女帝の即位は都合が悪い

最終的に女帝の時代に終止符をもたらしたのは、藤原氏による摂関政治の確立である。

藤原氏は、娘を入内させ、その娘が天皇とのあいだにもうけた親王を天皇に即位させることで、外戚として絶大な権力をふるうようになった。そうした体制のもとでは、女帝が即位することは都合が悪い。藤原氏が外戚となれなくなってしまうからである。

摂関政治の確立は、平安時代の中期だが、藤原氏はすでに奈良時代から、そうした体制の確立をめざしていた。聖武天皇に嫁いだ光明皇后は藤原不比等の娘である。摂関政治が本格的にはじまるのは、藤原良房が摂政となった貞観8(866)年からとされる。摂政は、天皇がまだ元服しておらず、実権をふるえない時代の補佐役である。

こうした体制が生まれることで、天皇家では親王を産むことがもっとも重要なこととなった。内親王にも、伊勢神宮の祭主になるという役割を与えられたが、親王ほどの重要性はない。

皇族か藤原氏の子女しか皇后になれない

一方、摂政関白となる藤原氏では、女子を産むことがもっとも重視された。家を継ぐ後継者としての男子も重要だが、こちらは養子という手もあった。良房の死後、藤氏長者となったのは養子の基経だった。

こうして、藤原氏における女性は、その権威を維持するために欠かせない「政治上の道具」となった。

彼女たちは、天皇の正妃として皇后になることはできても、推古天皇などとは異なり、夫の死後、天皇に即位することはなくなってしまった。

摂関政治は、応徳3(1086)年に院政がはじまることで終わりを告げ、やがては武家政権の時代に入る。だが、皇后になるのは、皇族か藤原氏の子女に限られるという体制は昭和天皇まで続いていく。

おりしも、国連の女性差別撤廃委員会は10月29日、日本の女性政策について、選択的夫婦別姓の導入とともに、男系男子に皇位継承を限る皇室典範の改正を勧告した。

国連女性差別撤廃委員会の日本の女性政策を審査する会合=2024年10月17日、スイス・ジュネーブ
写真=共同通信社
国連女性差別撤廃委員会の日本の女性政策を審査する会合=2024年10月17日、スイス・ジュネーブ

果たして日本政府はこれにどう答えるのか。

勧告に法的強制力はないものの、大いに注目されるところである。

島田 裕巳(しまだ・ひろみ)
宗教学者、作家

放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、『教養としての世界宗教史』(宝島社)、『宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)、『新宗教 戦後政争史』(朝日新書)など著書多数。