「女帝の子もまた同じ」と記された律令

しかし、飛鳥浄御原令の後に制定された「大宝律令」(701年)や「養老律令」(757年)には、女系による皇位の継承を認める条文が含まれていた。

養老律令のなかにある「継嗣令けいしりょう」は、今日の皇室典範に近いものだが、その最初の部分では、「天皇の兄弟、皇子は、みな親王とすること」とされ、そこにわざわざ注が入っていて、「女帝の子もまた同じ」と記されている。親王とは天皇の子を意味する。

現代においては、皇族の数を確保するため「女性宮家」の創設が議論され、国会もその方向で動いている。政治状況が流動化してしまったので、果たして女性宮家が近々認められるかどうかはわからなくなってしまったが、女性宮家にまつわる一つの問題は、配偶者や子どもを皇族とするのかどうかである。

今の国会などでの議論では、配偶者や子どもは皇族としない方向性が有力である。だが、古代の律令においては、子どもについては皇族と認めていたことになる。

要するに、古代の日本においては、皇位継承は男性にも男系にも限定されず、次々と女帝があらわれ、長く在位した上に、さまざまな方面で権力を行使したのだ。その時代、女性は大きな力を持っていたことになる。

女帝の時代が古代に限定されたワケ

こうした女帝の時代について研究している研究者は、女帝が中継ぎであったことをおしなべて否定している。

たとえば、成清弘和『女帝の古代史』(講談社現代新書)では、「通説のように、女帝を単なる中継ぎとしてはとらえきれない」と指摘し、孝謙・称徳天皇については、「真の意味での女性天皇として終始、行動した」と評価している。にもかかわらず、現代の男系固執派は、あくまで女帝が中継ぎであったとし、その点を譲らないのだ。

女帝は、孝謙・称徳天皇が出た後、長い間あらわれなかった。ふたたび女帝が誕生するのは江戸時代で、109代の明正天皇と117代の後桜町天皇が即位している。江戸時代には、朝廷の権力そのものが弱体化し、徳川幕府によって政治的には無力化された。したがって、この二人の女帝を古代の女帝たちと同列に扱うわけにはいかない。

ではなぜ、女帝の時代は、古代に限定されてしまったのだろうか。

一つ考えなければならないのは、古代において、女帝はあらわれても、それを支える豪族や貴族の家において、女性がトップになることがなかったことである。

蘇我氏や物部氏でも、そして、やがては権力の座を独占する藤原氏においても、そのトップはすべて男性だった。藤原氏を代表する人物は「藤氏長者とうしのちょうじゃ」と呼ばれたが、女性が藤氏長者になることはなかった。

藤紋の一例(下り藤)
藤紋の一例(下り藤)(画像=ムカイ/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

女帝が、豪族や貴族のトップになった女性とともに手をたずさえて政治を行っていたとしたら、状況は大きく変わっていたであろう。けれども、そのような事態は生まれなかったのだ。