女性権力者が見当たらない日本史
9月27日に行われた自民党の総裁選挙では、決選投票の結果、石破茂元幹事長が当選し、高市早苗経済安全保障担当大臣は敗れた。これによって、日本初の女性総理大臣は誕生しなかった。
しかし、ちょうどその1カ月後の10月27日に行われた衆議院議員総選挙で、自民党は単独過半数を割り込み、連立を組む公明党の議席を足しても過半数には満たない状態に追い込まれた。
もしも高市氏が首相になっていたとしたら、女性総理大臣の在位期間はごく短いものに終わっていたかもしれない。そうなれば、次の機会はそう簡単にはめぐってこないだろう。
海外では、女性の大統領や首相が次々と誕生している。サッチャーやメルケルのように、国際政治に多大な影響を与える女性政治家もめずらしくなくなってきた。その点では、日本の政界における女性進出は世界に大きく後れをとっている。
日本の歴史を振り返ってみたときにも、女性の権力者の名前をあげることはかなり難しい。鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻、北条政子は、夫の死後、「尼将軍」として政務の中心にあったというのが唯一の例外ではないだろうか。
飛鳥・奈良時代は女帝の時代だった
しかし、さらに歴史を遡ると、日本にも女性の権力者が次々と誕生した時代があった。それは飛鳥時代から奈良時代にかけてのことで、多くの女性天皇があらわれたのである。
飛鳥時代は592年から710年までだが、33代の推古天皇からはじまって皇極天皇(35代)、斉明天皇(37代)、持統天皇(41代)、元明天皇(43代)が即位した。元明天皇の時代には平城京への遷都が行われた。
続く奈良時代は710年から794年までで、元明天皇の後には、元正天皇(第44代)、孝謙天皇(46代)、称徳天皇(48代)が即位している。
このうち、斉明天皇は皇極天皇の重祚(二度即位すること)で、称徳天皇も孝謙天皇の重祚だった。孝謙天皇は、日本の歴史上唯一の女性皇太子でもあった。
33代の天皇から48代まで、16代の天皇が在位したが、そのうち女性の天皇である女帝は8代を占めている。半分は女性天皇だった。江戸時代にも女帝は生まれるが、飛鳥・奈良時代は、日本史上まれにみる「女帝の時代」だった。
日本は中国から多くのことを学び、制度や文物を取り入れてきた。だが、中国の女帝と言えば、唐の時代の則天武后に限られる。他の国でも、これだけ多くの女帝が続けてあらわれた例はめずらしい。
明治政府が認めなかった在位69年の女帝
従来の見方では、こうした女帝は、男性の皇位継承者がいないときの「中継ぎ」とされてきた。戦後の歴史学の世界で権威と目された井上光貞は、「古代の女帝」という論文において、女帝とは「いわば仮に即位したもの」と述べていた。辞書にある女帝の項目を見ても、女帝はあくまで中継ぎとされている。
しかし、どうだろうか。中継ぎにしては、古代の女帝の数はあまりに多すぎる。
中継ぎなら、さっさと男性の天皇に交替してもいいはずだが、推古天皇などあしかけ36年間も在位しており、孝謙・称徳天皇も、重祚したこともあり、在位期間はあしかけ15年に及ぶ。
実は、さらに時代を遡ると、より長く在位した女帝がいた。それが14代の仲哀天皇の皇后だった神功皇后である。現在では、神功皇后は天皇の政務を代行する摂政とされ、その在位期間は69年とされる。
ただ、大正15年に皇統譜令が定められるまで、神功皇后は15代の天皇とされていた。万世一系を強調し、皇位を男性に限定した明治以降の政府は、そんなに長く在位した女帝を認めたくなかったのだ。
母と娘の間で行われた皇位継承
女帝が長く在位したということは、それだけ為政者として多くの仕事をなしとげたことを意味する。推古天皇だと、仏教の興隆や遣隋使の派遣、国史(『日本書紀』)の編纂などを行っている。持統天皇も、飛鳥浄御原令を制定し、藤原京の造営をなしとげた上、外交面では新羅に朝貢させている。
どの女帝も、同時代の男性の天皇と比べて、遜色ない働きをしている。孝謙・称徳天皇などは、橘奈良麻呂の乱や藤原仲麻呂の乱を鎮圧しているし、不和となった淳仁天皇から皇位を奪った上で天皇に復帰している。戦闘であろうと、政争であろうと、女帝たちはそれに積極的にかかわったのだ。
現代における女性天皇、女系天皇の問題に深くかかわってくるのが元明天皇から元正天皇への皇位の継承である。元明天皇は元正天皇の母親であり、母と娘のあいだで皇位の継承が行われた。ということは、女系で継承されたことになる。
ただ、元明天皇は天智天皇の第4皇女で、天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子の正妃だった。元正天皇はその間に生まれた皇女であり、父親も皇族であった。その点では、男系での継承であったとも言える。
「女帝の子もまた同じ」と記された律令
しかし、飛鳥浄御原令の後に制定された「大宝律令」(701年)や「養老律令」(757年)には、女系による皇位の継承を認める条文が含まれていた。
養老律令のなかにある「継嗣令」は、今日の皇室典範に近いものだが、その最初の部分では、「天皇の兄弟、皇子は、みな親王とすること」とされ、そこにわざわざ注が入っていて、「女帝の子もまた同じ」と記されている。親王とは天皇の子を意味する。
現代においては、皇族の数を確保するため「女性宮家」の創設が議論され、国会もその方向で動いている。政治状況が流動化してしまったので、果たして女性宮家が近々認められるかどうかはわからなくなってしまったが、女性宮家にまつわる一つの問題は、配偶者や子どもを皇族とするのかどうかである。
今の国会などでの議論では、配偶者や子どもは皇族としない方向性が有力である。だが、古代の律令においては、子どもについては皇族と認めていたことになる。
要するに、古代の日本においては、皇位継承は男性にも男系にも限定されず、次々と女帝があらわれ、長く在位した上に、さまざまな方面で権力を行使したのだ。その時代、女性は大きな力を持っていたことになる。
女帝の時代が古代に限定されたワケ
こうした女帝の時代について研究している研究者は、女帝が中継ぎであったことをおしなべて否定している。
たとえば、成清弘和『女帝の古代史』(講談社現代新書)では、「通説のように、女帝を単なる中継ぎとしてはとらえきれない」と指摘し、孝謙・称徳天皇については、「真の意味での女性天皇として終始、行動した」と評価している。にもかかわらず、現代の男系固執派は、あくまで女帝が中継ぎであったとし、その点を譲らないのだ。
女帝は、孝謙・称徳天皇が出た後、長い間あらわれなかった。ふたたび女帝が誕生するのは江戸時代で、109代の明正天皇と117代の後桜町天皇が即位している。江戸時代には、朝廷の権力そのものが弱体化し、徳川幕府によって政治的には無力化された。したがって、この二人の女帝を古代の女帝たちと同列に扱うわけにはいかない。
ではなぜ、女帝の時代は、古代に限定されてしまったのだろうか。
一つ考えなければならないのは、古代において、女帝はあらわれても、それを支える豪族や貴族の家において、女性がトップになることがなかったことである。
蘇我氏や物部氏でも、そして、やがては権力の座を独占する藤原氏においても、そのトップはすべて男性だった。藤原氏を代表する人物は「藤氏長者」と呼ばれたが、女性が藤氏長者になることはなかった。
女帝が、豪族や貴族のトップになった女性とともに手をたずさえて政治を行っていたとしたら、状況は大きく変わっていたであろう。けれども、そのような事態は生まれなかったのだ。
摂関政治では女帝の即位は都合が悪い
最終的に女帝の時代に終止符をもたらしたのは、藤原氏による摂関政治の確立である。
藤原氏は、娘を入内させ、その娘が天皇とのあいだにもうけた親王を天皇に即位させることで、外戚として絶大な権力をふるうようになった。そうした体制のもとでは、女帝が即位することは都合が悪い。藤原氏が外戚となれなくなってしまうからである。
摂関政治の確立は、平安時代の中期だが、藤原氏はすでに奈良時代から、そうした体制の確立をめざしていた。聖武天皇に嫁いだ光明皇后は藤原不比等の娘である。摂関政治が本格的にはじまるのは、藤原良房が摂政となった貞観8(866)年からとされる。摂政は、天皇がまだ元服しておらず、実権をふるえない時代の補佐役である。
こうした体制が生まれることで、天皇家では親王を産むことがもっとも重要なこととなった。内親王にも、伊勢神宮の祭主になるという役割を与えられたが、親王ほどの重要性はない。
皇族か藤原氏の子女しか皇后になれない
一方、摂政関白となる藤原氏では、女子を産むことがもっとも重視された。家を継ぐ後継者としての男子も重要だが、こちらは養子という手もあった。良房の死後、藤氏長者となったのは養子の基経だった。
こうして、藤原氏における女性は、その権威を維持するために欠かせない「政治上の道具」となった。
彼女たちは、天皇の正妃として皇后になることはできても、推古天皇などとは異なり、夫の死後、天皇に即位することはなくなってしまった。
摂関政治は、応徳3(1086)年に院政がはじまることで終わりを告げ、やがては武家政権の時代に入る。だが、皇后になるのは、皇族か藤原氏の子女に限られるという体制は昭和天皇まで続いていく。
おりしも、国連の女性差別撤廃委員会は10月29日、日本の女性政策について、選択的夫婦別姓の導入とともに、男系男子に皇位継承を限る皇室典範の改正を勧告した。
果たして日本政府はこれにどう答えるのか。
勧告に法的強制力はないものの、大いに注目されるところである。