仏教信仰につながる父母の系譜
聖武天皇は、東大寺に大仏を建立する事業を率先して進めたことで知られるように、仏教に対するあつい信仰をもっていた。大仏を建立した目的も、国家鎮護にあった。大仏をたて、それを信仰することで、国を安泰にしようと試みたのだ。こうした考え方は、現代の人間には理解しにくいものだが、古代から中世にかけて、神仏の力は絶大だと社会全体で考えられていた。
一方の光明皇后は、藤原不比等と県犬養橘三千代のあいだに生まれ、やはり仏教に深く帰依し、夫である聖武天皇に対して仏教をもとにした政治を推し進めさせようとした。光明皇后はまた、仏教の慈悲の精神にもとづいて施薬院や悲田院を設立したことでも知られている。今でいえば、社会福祉の事業に積極的に取り組んだのだ。
したがって、孝謙・称徳天皇もあつい仏教の信仰をもつに至った。
現代では、天皇家の信仰は神道とされ、実際天皇は宮中祭祀で神主の役割をつとめている。だが、明治になるまで、今のような宮中祭祀は存在せず、天皇や皇族の信仰も仏教が中心だった。
したがって、代々の天皇のなかには、仏教の信仰をもっただけではなく、出家し、さらには僧侶として活躍する者もいた。聖武天皇も、歴史上最初に戒名を授けられ仏弟子になったとされている。孝謙・称徳天皇も、いったん譲位した後に出家している。道鏡と性的な関係を結んでいたなら、出家は不都合である。この点でも、道鏡との関係が誹謗中傷であった可能性が高い。
道鏡を皇位につかせようとしたワケ
孝謙・称徳天皇が譲位した後には、天武天皇の皇子である舎人親王の七男が淳仁天皇として即位している。だが、孝謙・称徳天皇は上皇として一定の権力を保持していた。そして、恵美押勝と改名した藤原仲麻呂の乱が起こると、仲麻呂と関係が深かったとして、淳仁天皇は孝謙・称徳天皇によって廃帝に追い込まれ、淡路に流されている。孝謙・称徳天皇は相当の実力者だったのだ。
では、孝謙・称徳天皇はどういった政治をめざしたのか。
それは、正しい仏の教えによって統治するという宗教的な理念にもとづく政治だった。だからこそ、自らは出家し、彼女が僧侶として尊敬にあたいすると考えた道鏡を皇位につかせようとしたのである。
孝謙・称徳天皇がつくった漢詩に「仏の智慧は光のように、その感化を及ぼすあらゆる世界を照らし、仏の慈悲の恵みは雲のように、全ての生あるものを庇護されている」という意のものがあった。彼女は、仏の力を讃えていたのである。
彼女が独身を貫いたのも、仏の道に仕えようとしたからであろう。そして、皇統に属する後継者を残さなかったのも、それ以降の天皇は、彼女と同様に仏につかえ、道鏡のように仏の道に深く通じている人間でなければならないと考えたからだ。