雪まつりで嘉子と乾太郎の“腕組み”が目撃され話題に

嘉子さんと乾太郎さんは夫婦になってからも、いろいろなところに連れ立って出かけていたようです。小田原の旧三淵邸・甘柑荘の物置から嘉子さんが残した30冊ほどのアルバムが見つかりましたが、一番古いものは昭和31年、乾太郎さんと再婚し、目黒の官舎で暮らし始めた頃から始まっています。

自宅でくつろぐ様子や、着飾って銀座を歩く二人、同僚や部下たちが集まっての官舎での宴席、旧宅の縁側で双方の連れ子と並んだ記念写真。そして、ドラマと同じく家族で麻雀をしている写真もありました。

あるときは、新潟の十日町の雪まつりで、乾太郎さんと腕を組んで歩いているところを目撃され、「有名なえらい女性が夫と腕を組んでいる」と話題になったこともあったと、裁判所のOBの方に聞きました。

結婚してからもずっと恋人同士のような関係だったようです。

嘉子さんと乾太郎さんがずっとラブラブだったのは、別居婚の時期が多かったことも影響しているかもしれません。

嘉子さんは新潟や浦和の家庭裁判所で所長を務めました。一方、乾太郎さんも甲府地裁の所長を務めており、お互いちょうど所長になる年次だったことから、裁判官時代は一緒に暮らす期間がわずかだったと言うことです。

しかし、嘉子さんは前夫の和田芳夫さんのこともずっと愛していたそうです。何しろ、嘉子さんが亡くなったときには三淵家だけでなく、香川県丸亀市にある和田家のお墓にも分骨したくらいですから。

「虎に翼」より
写真提供=NHK
「虎に翼」より

乾太郎は裁判官としてもっと出世してもおかしくなかった

ところで、嘉子さんは女性初の弁護士の一人で、女性初の判事で、女性初の家庭裁判所所長で、なにしろ有名人でした。一方、乾太郎さんも甲府地裁や浦和地裁の所長をしましたが、私個人としては少し違和感も抱いています。

それが何かというと、乾太郎さんはドラマの航一さんと同じように、戦前、総力戦研究所のメンバーにも選ばれたように、戦前は次世代の司法のリーダーとみなされていたわけです。戦後も最高裁判所の上席調査官をしており、将来的には父親の三淵忠彦さんのような最高裁長官まではいかなくても、どこかの高裁長官くらいになってもおかしくなかったんですね。

清永聡『家庭裁判所物語』(日本評論社)
清永聡『家庭裁判所物語』(日本評論社)

しかし、結果的に東京高裁の部総括(裁判長)にもならず浦和地裁の所長で退官している。なぜ乾太郎さんはそこまでだったのかという疑問があります。

おそらくそれは乾太郎さん自身も比較的リベラルな裁判官であったと言われていて、「司法の冬の時代」と呼ばれた当時、その出世をさまたげるようなことがあったんじゃないか、とも想像もしますが、今となってはわかりません。

ドラマで描かれているように、嘉子さんと乾太郎さんの再婚には、お互い連れ子がいて、家庭内での波乱もありましたが、二人は互いの子どもを育てあげ、社会へと送り出し、その後の人生を共に過ごしています。乾太郎さんが出世を望んでいた裁判官だったとは思えず、幸せな結婚生活だったと言えるのではないでしょうか。

取材・文=田幸和歌子

清永 聡(きよなが・さとし)
NHK解説委員

1970年生まれ。NHKで社会部記者として司法クラブで最高裁判所などを担当。司法クラブキャップ。社会部副部長などを経て現職。著書に『気骨の判決――東條英機と闘った裁判官』(新潮社、2008年)、『家庭裁判所物語』(日本評論社、2018年)、『戦犯を救え――BC級「横浜裁判」秘録』(新潮社、2015年)がある。