重みが生まれない皇嗣の発言

幕末には、皇室は仏教とかかわるべきではないという声が高まり、法親王は還俗することになった。明治になると、皇族は出家できなくなった。それによって、皇位継承の可能性のない親王は、法親王という選択肢を失ってしまったのだ。

世間も、天皇の発言であれば、それを真摯に受け止めざるを得ない。ところが、天皇に即位する可能性が薄い皇嗣であれば、その発言に重みが生まれようがない。

実際、秋篠宮の発言が重要視されたことはないし、かえってバッシングの対象になってきた。

国民も、秋篠宮に対して何を期待したらいいのか。それがよく分からない。期待するべきものがはっきりしないため、秋篠宮がどういった発言をしても、どういった行動をしても、国民は満足もしないし、納得もしないのだ。

ただ、将来において、現在の天皇が亡くなったり、譲位したりすれば、秋篠宮が天皇に即位する可能性は残されている。兄弟の年齢差は5年だ。かなり微妙な年齢差であり、秋篠宮が天皇に即位する際には、間違いなく光仁天皇の62歳という最高齢の記録を超えるであろう。現在でも58歳だ。

第49代天皇 光仁天皇
第49代天皇 光仁天皇(写真=Unknown author/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

秋篠宮の犠牲の上の天皇制

農家や商家なら、その家を出るという選択肢がある。現代の親王でも、そうした道を選ぶことがまったく不可能というわけではない。

現在の皇室典範では、親王についても、「やむを得ない特別の事由があるときは、皇室会議の議により、皇族の身分を離れる」ことができると定められているからである。

実際、そうした例もある。日本でのことではないが、イギリスのヘンリー王子は、チャールズ国王の次男で、王室を離れた。そうした出来事がもっと前に起こっていたとしたら、秋篠宮もその道があったのかと、皇族の身分を離れることを考えたかもしれない。

しかし、秋篠宮が「特別の事由」を見いだすことは相当に難しい。そんなことを言い出せば、さらにバッシングを受けることにもなりかねない。

現在の天皇制は、秋篠宮の犠牲の上に成り立っている。私たちは、秋篠宮の悲哀に思いをはせる必要があるのではないだろうか。

島田 裕巳(しまだ・ひろみ)
宗教学者、作家

放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員、同客員研究員を歴任。『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)、『教養としての世界宗教史』(宝島社)、『宗教別おもてなしマニュアル』(中公新書ラクレ)、『新宗教 戦後政争史』(朝日新書)など著書多数。