原爆の被害者には被爆者援護法が適用されるが、この法律が成立したのは1994年で、終戦の49年後と遅い。作家の山我浩さんは「1955年から三淵嘉子裁判官らが担当し『原爆投下は国際法違反』とした原爆裁判の判決は、日米両政府が原爆の責任から目をそむける中で下された画期的な判決。その後の被害者救済にもつながった」という――。

※本稿は、山我浩『原爆裁判 アメリカの大罪を裁いた三淵嘉子』(毎日ワンズ)の一部を再編集したものです。

広島、長崎の被爆者が国家に賠償を求めた有名な裁判

「原爆裁判」は、昭和30年代、原爆投下の違法性が初めて法廷で争われた国家賠償訴訟の通称名である。その資料は担当した松井康浩弁護士から日本反核法律家協会が預かり、現在は会長の大久保賢一弁護士の事務所で保管されている。

本来裁判所が保管すべきものだが、近年、全国の裁判所で裁判記録の大量廃棄が明らかになっている。この原爆裁判の記録も、判決文を除き、すべて捨てられていた。したがって原爆裁判資料の大半はもはや大久保事務所にしかないのである。

1953年(昭和28年)、日本の弁護士がアメリカの裁判所で、原爆を使用したアメリカ政府を訴えようとする。しかし1953年は日本が独立を回復した翌年である。弁護士の多くは戦勝国で超大国となったアメリカを訴えることに消極的で、周囲の理解は得られなかった。

だが、2年後の1955年(昭和30年)、広島と長崎の被爆者5人が大阪地方裁判所と東京地方裁判所で訴えを起こす。弁論準備などの手続きの後、1960年(昭和35年)2月から1963年(昭和38年)3月まで、9回の口頭弁論が開かれている。この「原爆裁判」に三淵嘉子みぶちよしこが携わっている(嘉子は昭和31年、名古屋地裁から東京地裁に異動した)。

残されている口頭弁論調書、その表紙には審理の日付と担当裁判官の名前が記されるが、右陪席(次席裁判官)にはすべて、「三淵嘉子」の名が記されている。裁判長と左陪席は何度か交代しているが、嘉子だけは、第1回の口頭弁論から結審に至るまで、一貫して原爆裁判を担当し続けた。

広島市の原爆ドーム、2020年
写真=iStock.com/font83
広島市の原爆ドーム(※写真はイメージです)

三淵嘉子は次席裁判官として8年に及んだ裁判を全て担当

審理は8年に及んでいる。保管されている記録からは弁論準備だけで27回、4年に及んでいる。1960年(昭和35年)からは大阪地裁の訴えも、東京地裁に併合された。質量ともに難しく、重く大きな事件だった。

この原爆裁判に関して、嘉子が語ったものは何も残されていない。彼女は、自身のしてきたこと、試みや制度、自分が外に対して語るべきことなどを折りに触れて語ってきた。饒舌じょうぜつではないが、寡黙に過ごすことはむしろあまりなかった。

その彼女が、日本にとっても世界にとっても「原爆裁判」という極めて深刻な訴訟について、沈黙を貫いたのは、自分が見解を述べることで、わずかでも影響を残す可能性を恐れたのかもしれない。また裁判官が合議の秘密を語ることは固く禁じられていた、ということもあったろう。

長男の芳武さんはこれについて、「当時の報道で母が原爆裁判を担当したことは知っていますが、内容について聞いたことはなかった」という。