ゲームオーバーだからこそ

そうなると、「自分ももう少しは上に上がれるはずだし、そうなりたい」という思いを持つのも当然です。

そして、そう考え始めると、とりあえずは、何よりも「うまく立ち回る」ことを第一に考えざるを得ないし、特に大きな機会に恵まれそうになければ、まずは「安全第一」で行くしかなくなってしまいます。

しかし、定年間近の年齢に達すると、どうでしょうか?

長年自分を苛めてきたこの「生活の向上」の呪縛は、既に消えてしまっているのが普通です。もはや「ゲームオーバー」で、多くを求めるのは不可能だし、そんな気もとっくに失せてしまっているからです。

子供たちも概ね独立しており、もはや負担ではありません。家のローンも何とか完済しています。これからの親の介護のための負担が、少し心配ではあっても、「責任感の重圧」がのしかかってくるほどではありません。

これが、定年直近の年齢に達した人たちの平均的な状況だと思いますが、よく考えてみると、これって、かなり凄いことではないでしょうか?

大袈裟にいえば、牢獄から解き放たれて、自由な未来に向けて深呼吸をしているようなものだと、言えないこともありません。

赤いマントをつけて空を飛ぶ人形
写真=iStock.com/adventtr
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「未知のものとの遭遇」のギフト

それならば、少しぐらい「冒険」をしてみても良いのではないでしょうか?

「自由」も「冒険」も必ず「不安」を伴うものであり、決して気楽なものではありませんが、それでも、それまでに長い間感じてきたような「責任感の重圧」に比べれば、何ということはありません。

失敗しても失うものはそんなに大きくはありません。良くも悪くも、人生の最後が少しだけ波乱に満ちた(面白い)ものになるか、平凡で詰まらないままで終わってしまうかだけの違いです。

何が「冒険」なのか、何が「面白い」のかといえば、そこには「未知のものとの遭遇」があるからです。

これまでには言葉を交わすこともなかった人たちとの出会いもあるでしょうし、全く異なった「考え方」や「やり方」を知って、驚きながらも「なるほど」と納得することもあるでしょう。

こういう新しい体験の中で、これまでは気がつかなかった「自分」の別の側面に気がついたり、新しい「価値観」に目覚めたりすることもあるかもしれません。

人生の最後にこういうことがあるかもしれないと思えば、そのチャンスを見逃す手はないでしょう。