客は母国語で話してくれる営業員を望む
大和証券シンガポールの「おもてなしスピリット」が知られるようになると、顧客がひとり、ふたりと増えていったのである。そうなると、シンガポールの金融業界でも注目を浴びて、ライバルが出てくるはずだが、真似をするところは出てこなかった。
まず、同国でプライベートバンク業務をしているスイスやアメリカの金融機関とは顧客ターゲットが異なっていた。彼らにとってシンガポールに移住している日本人資産家は主要なそれではない。なんといっても数が少ないからだ。それよりも、英語が通じるシンガポール人、もしくはシンガポールにいる欧米の資産家を対象にした方が効率がいいのである。
また、欧米のプライベートバンクが日本人資産家を狙うとすればそれは日本に暮らしている富裕層だった。その方がはるかに数が多いし、日本支社にいる日本人社員が担当すればいい。そういった事情で欧米のプライベートバンクは大和証券シンガポールの営業活動を知ってはいたけれど、追随しなかった。
客は結局のところ、母国語で話してくれる営業員を望むからだ。
テレアポも飛び込み営業も苦手な6人目の侍
大和証券シンガポールが採った戦略はニッチなマーケットを攻めることであり、それは自然のうちに他社からの参入を防ぐ障壁となっていた。加えて、顧客になってもいない人間から呼ばれて、「テレビのチャンネル設定をしてくれ」と言われたとしても、欧米のプライベートバンカーはやらなかったろう。
彼らはビジネスに対価を求める。顧客でもない人間の要望に応えることはない。また、顧客もそのことをよくわかっているからプライベートバンカーに雑用を頼むことはない。
大和証券シンガポールが採用したおもてなしスピリットは、ユニークで、他社がなかなか真似できない営業手法だったのである。
山本がシンガポールに着任してから、2年後、自ら手を挙げて赴任してきたのが平崎晃史だ。赴任直前まで香港で働いていた平崎は「シンガポールで山本が暴れている。気を吐いている」と噂を聞き、自分もまた暴れたいと勢い込んで赴任してきた。
平崎は1984年生まれ。入社は2007年。団塊の世代が引退した時期で、新卒採用は多く、同期は1100人もいた。(略)
平崎はテレコール、飛び込み営業、ともに苦手だった。よく言えば内省的、ざっくばらんに表現すれば引っ込み思案だったから、知らない人に話しかけることができなかった。また、「株式の営業です」と言ったとたんに「結構です」と断られると深く傷ついた。繊細な性格なのである。