笠置の到着が遅れて、日本海難史上最悪の船舶事故を回避
結果的に笠置・長谷川一行は九死に一生を得たかたちになった。しかし二人は長い間この事実をマスコミに漏らすことはなかった。もちろん犠牲者と遺族の心情を慮ってのことである。
長谷川は笠置と会えばそっと「あんたのおかげで助かった」と言うことを忘れなかった。
これは笠置とて長谷川と思いは変わらない。人知を超えた運命のいたずらかもしれない。笠置にとっては一生忘れられない出来事だった。
筆者自身にはこういう経験はなかったが、身近な人にはある。むかし札幌雪祭りに出版業界のメンバーによる団体旅行があった。ある人は日程を終えた帰りに東京行きの予約便飛行機を友人と会うためキャンセルした。ところが、その飛行機が墜落して九死に一生を得た。この人は筆者の仕事先の出版社会長である。
筆者の弟は軽自動車で旅行をする予定だったが、直前にふと気が変わり頑丈なオフロード車をカーリースした結果、多重事故に巻き込まれたものの軽傷で済んだ。
いつでも仕事に全力投球だった笠置は強運をたぐり寄せた
人生で一瞬の生死を分ける磁場とはいったいなんなのだろうか。
筆者が考えるに笠置の場合、いつでもどこでも全力投球だった。彼女の強運はここに鍵があるような気がする。
令和5年のスーパー歌舞伎「不死鳥よ波濤を超えて」で、不祥事を起こした主演・市川猿之助の代役をたった一日の稽古で見事に演じた弱冠20歳の市川團子が世間からやんやの喝采を浴びた。
しかし、こんなことは松竹歌劇団の部屋子時代の笠置にとって当たり前のことだった。公演があればどんな役でも演じられるように、食い入るように他人の演じる芝居を見つめた。一朝ことがあれば代役を任せられるように心構えだけはしておくのである。
結果、しばしば代役の話は笠置に回ってきた。
笠置が歌劇団に入って半年か1年くらいの間に長谷川一夫の師匠・林長三郎の「保名」が上演された際には、笠置は童子に抜擢され、名妓菊吾が「鑑獅子」を踊った際には小蝶の役を貰った。
これは異例のことだった。同僚からは憎まれ嫉妬されたものである。しかし笠置はめげなかった。恩になった人へ一日も早く恩返しするためにはそんなことをいちいち気にしていられなかったからである。
笠置にとって運はたまたま巡ってくるものではなくたぐり寄せるものだった。
後年、笠置シヅ子は歌手活動を継続するための体力と忍び寄る人気の凋落に不安を覚えて、周囲の反対を押しのけスパッと女優業に切り替えた。それは徹底していて笠置は以降持ち歌の鼻唄さえ歌うことはなかった。もちろん収入面では何分の一になった。半面、息の長い芸能生活を送ることに成功した。そういう意味でも彼女は最後まで「強運の女」であった。
1946年生まれ。出版社に勤務後、編集プロダクションを設立。書籍の編集プロデューサーとして活躍し、数々のベストセラーを生みだす。その後、著述家としても活動。おもな著書には、『75歳、交通誘導員まだまだ引退できません』『交通誘導員ヨレヨレ日記』『武器としての言葉の力』『十四歳からのソコソコ武士道』『岡本太郎 爆発する言葉』などがある。