ミシェルが一人でトロフィーを渡さなかった理由は?

また、なかなか直視しにくいことだが、マイクロアグレッションの被害を受けた当人が、加害者のために、わざわざ言い訳をしてあげることも、少なからず起きる。

そもそもなぜミシェル・ヨーは、自分一人でトロフィーを渡さなかったのだろう。なぜローレンスと一緒に渡すことを考えたのだろう。ヨーは先述のインスタグラムで、『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』で共演したジェイミー・リー・カーティスとの友情にも言及しており、アジア人女性と白人女性との間のシスターフッドの存在を強調したかったのかもしれない。だが、そのように受け取っている人はほとんどいないのが現状だ。

私が気がかりなのは、ミシェル・ヨーにどこか気後れはなかったのかということだ。歴史的に白人が牛耳ってきたアカデミー賞授賞式の場で、「この場の主役は白人のあなたたちで、アジア人の私ではない」という意識がどこかになかったのだろうか。

ミショル・ヨーのアカデミー賞受賞を知らせるマレーシアのパネル、2023年
写真=iStock.com/gracethang
ミショル・ヨーのアカデミー賞受賞を祝うマレーシアのパネル、2023年(※写真はイメージです)

ミシェルの振る舞いは後進のアジア人のためにならない

欧米では、アジア人女性は往々にして、自己犠牲を美徳とする、というステレオタイプを押し付けられてきた。オペラ「マダム・バタフライ」のストーリーはその典型だ、とアジア研究の分野では長く批判されてきた。本来そのつもりはなくても、結果として、ミシェル・ヨーはそのステレオタイプを自ら演じてしまわなかっただろうか。

ミシェル・ヨーが主演した『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』は、アジア系移民の世代間格差が大きなテーマで、最終的には、理解できない娘のことを母が受け入れる物語となっていた。でも残念ながら、アカデミー賞授賞式でのヨーの行動は、アジア系の娘たちのロールモデルになるもののようには見えない。