定子の兄伊周が花山上皇とは知らずに矢を放ったという事件
すでに父の道隆は亡くなっており、失敗したとはいえ、家長的な態度を示したわけである。そして彼女は手ずから髪を切って尼になるという強烈なアピールを行い、還俗していないのに一条天皇の要請を受けて再び宮廷に戻り、内裏ではなく中宮職の曹司に入って、「職の曹司」の定子皇后と内裏の彰子中宮(藤原道長の長女)の二后体制を作り出す。
この時代の研究者は私を含めほとんどが男性であり、このような彼女の行いは政治も世間も知らないお姫様のわがままだと、なんとなく理解されていたように思う。しかし彼女の気概は、長徳の変により中関白家(道隆の一族)の権威が大きく揺らいでからも変わらなかったと見える。
『枕草子』の「五月ばかり、月もなう」(岩波古典文学大系本一三七段)には、突然御簾ごしに差し込まれた呉竹を、晋の王子猷の故事を踏まえて「この君」と呼ぶエピソードがあるが、これは長徳の変の後の長保元年(999)のことと推定されている。定子が職の曹司にいた時期である。この時期の定子サロンを公卿たちがからかい、それを、漢文教養で返したのである。
清少納言は定子サロンが健在であることをアピールしたか
政治的に追いつめられていても定子サロンは健在だった。そしてこの切り返しの直撃を食らい、言い訳がましく現れたのが道長側近の知性派藤原行成だったのは、多分に道長への追従をねらった意地悪だったことを示しているように思える。『枕草子』が定子サロンの高度な知性を記録し、失ったものの大きさを残された男たちに示すような意味を持って書かれたとするならば、こうしたできごとを記録したことも、彼女らの強烈なアピールと読める。
ならば清少納言の最大の謎、なぜ彼女は少納言と呼ばれたのか、ということについても一つの仮説が出せるように思う。清少納言の眷属(親族)には少納言の経験者がいないにもかかわらず、彼女が「少納言」と呼ばれていたことは『枕草子』の「香炉峰の雪」の段から明らかなのだが、当時の宮廷では、一般的な女房の通り名として、侍従や小弁とともに少納言があったという説や、本来の少納言が「天皇に近侍する秘書官」的な役割であることを考慮すれば、中宮定子のそばに少納言のように近侍する、身分は高くないが軽視すべからざる有能な女房、という意味で「少納言」と呼ばれた可能性が高いと思う。