清少納言は自己PRではなく定子のために「枕草子」を書いた?

だからこそ彼女は「定子の分身」として漢学の才能を道長や行成に「ひけらかす」必要があった。この主従は、かつての女帝や高級女官に劣らない存在として、男性貴族社会に対峙たいじしていたのではないだろうか。藤原定子が高階貴子の血を引く女性であるのに対して、清少納言は清原氏に生まれた女性である。高階氏は天武天皇の子の高市皇子の子で、左大臣長屋王の子孫、清原氏は高市の弟舎人親王の子孫である。いずれも天武天皇に始まる奈良時代皇族の後裔(子孫)、つまり平安時代のアウトサイダーだということでもこの主従はつながりを感じていたのかもしれない。

そしてもしも定子が長生きをして一条天皇との関係を良好に保ち、その長男、敦康あつやす親王を庇護しつつ道隆の遺族、中関白家の実質的家長の役割を果たしていたとすれば、天皇と後宮の関係も新しいものになり、藤原伊周が挫折を繰り返してストレスで早世することもなく、その子孫たちの没落もなかったという未来が開けた可能性もないわけではないと思う。少し変わった定子の後宮は、女性がのびのびと発言する新しい後宮の先例になったかもしれないのである。

榎村 寛之(えむら・ひろゆき)
日本史研究者

1959年大阪府生まれ。三重県斎宮歴史博物館学芸員、関西大学等非常勤講師。大阪市立大学文学部卒業、岡山大学大学院、関西大学大学院で日本古代史を専攻し、博士(文学)に。著書に『斎宮 伊勢斎王たちの生きた古代史』(中公新書)、『伊勢斎宮の祭祀と制度』(塙書房)、『伊勢神宮と古代王権 神宮・斎宮・天皇がおりなした六百年』(筑摩選書)など。