現代で「普通」の再生を描くには、複雑で破綻したストーリーが必要

かつてのジュブナイルものは、内向的な青年の立ち直りを描くのに、ファンタジー的な異界や、ちょっとした危険を用意すればよかった(註11)。その手法としてよく使われたのが、異界であり、そこを旅する体験だった。そうした「外部」を経由してはじめて、主人公たちは、「普通」の日常に戻っていくことができた。

でも、現在社会のジュブナイル(青年期)を描くには、〈単なる異界体験〉では足りない。かつての異界イメージはありふれていて、そんなものでは日常の外側を感じられないのだ。そうでなければ、これだけコンテンツに溢れている状況で、一部の若者が苦境を抱えきれずに薬の過剰摂取や死によって「外部」を目指すだろうか。今日、単純な異界性では、複雑な家族関係のわだかまりを、どうしようもない喪失感や寂寞をほどく「外部」を描くことができない。

『君たちはどう生きるか』©2023 Studio Ghibli
『君たちはどう生きるか』©2023 Hayao Miyazaki/Studio Ghibli

いったん引退宣言をした宮﨑監督の再生としても読み解ける

家族が「普通」へ復帰するプロセスを、喪失に打ちひしがれた少年が「普通」の日常に戻るプロセスを物語化するには、過去作の『となりのトトロ』や『崖の上のポニョ』より、もっと複雑で遠回りした異界を描く必要があった。その「ともすると迂遠にも見えかねない道」の宮﨑駿なりの歩き方が、破綻をきたすほど、複数の物語をぶつけあうことだった。

その意味で、ガーディアン紙のレビュアーによる、「プロットが込み入りすぎている」との指摘は的確だった。その複雑性や破綻は、「いわゆる『普通』の日本人」のありふれた再生を描くために避けがたいものだったのだから。

もちろん、本作を「眞人の」再生として理解しなければならないわけではない。公式ガイドブックやドキュメンタリーなどで、宮﨑駿の自伝として読み解くよう促す自己解説が出回っているように、一度引退した宮﨑が再びアニメーション制作へと向かう遠回りを、つまり、「宮﨑の」再生として読解する可能性もまた開かれている(註12)

(註11)日常の外部としての「危険」の有名な例としては、スティーブン・キング『スタンドバイミー』や、岡崎京子の『リバーズ・エッジ』の死体を思い浮かべるとよい。
(註12)しかし、本作を「宮﨑駿やジブリの伝記」とみなす自己解説は、相当数いるジブリファン向けのリップサービスのようなものだと考えた方が健全ではないか、とも思っている。英語圏のレビューを見ていると、公式ガイドブックや自己解説に左右されずに作品を受容している。思春期、戦争、家族(父/母)、異界想像力、自然、継承などのモチーフは、世界各国のさまざまな物語にも見いだせる普遍的なものであり、自伝的な解釈では、そうしたモチーフの広がりを個人史という具体的な領域に縮減してしまうことになる。

谷川 嘉浩(たにがわ・よしひろ)
哲学者、京都市立芸術大学 講師

1990年、兵庫県に生まれる。哲学者。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。現在、京都市立芸術大学美術学部デザイン科講師。単著に『スマホ時代の哲学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『鶴見俊輔の言葉と倫理』(人文書院)、『信仰と想像力の哲学』(勁草書房)などがある。