渡米のタイミングで関係が悪化、服部良一は楽曲使用を禁止

問題が起こったのはその翌年、1950年の7月。ハワイの松尾興行の招きで服部と笠置がアメリカに行くことになったとき、ひばりたちはハワイの二世楽団に招かれて1カ月早く渡米することになったという。二組の渡米先での“ニアミス”について、服部の自伝ではこう記されている。

松尾興行から急な連絡が入った。せっかく「服部・笠置のブギウギコンビ」のキャッチフレーズで宣伝を進めているのに、ひばりが一足先にブギを歌ってまわり、そのあとで同じ曲目で笠置が回るのでは興行価値は低下する。なんとかして欲しいという要請である。中間に立ってぼくは困った。だが、ブギは笠置シヅ子というパーソナリティーを得てこそヒットしたのだ。美空ひばりが歌うことは自由だが、それによって最初に歌った人が迷惑をこうむるのは、作曲者としてみるに忍びない。相手が子供だといっても理由にはならない。やむを得ず音楽著作権協会を通じて、今回の渡米中のみ作品の使用を停止する旨通告した。
服部良一『ぼくの音楽人生』(日本文芸社)

「笠置シヅ子の世界 ~東京ブギウギ~『ヘイヘイブギー』」℗ Nippon Columbia Co., Ltd./NIPPONOPHONE

美空の本番5分前に笠置が電話して歌うのを止めさせた?

笠置とのいざこざについては、ひばりの自伝にも書かれている。

ひばり自伝 わたしと影』(1971年、草思社)では、ひばりは1949年の日劇で当時大流行していた『ヘイヘイブギー』を歌うことになっていて、服部に紹介してもらい、「みっちり三日間仕込んでいただきました。終ったときには、先生にも『よし』と言っていただけて、わたしもすっかり自信を持ち、楽しい舞台にしなければ、と心にきめていました」と記している。ところが、開幕5分前になって、笠置からの電話で、『ヘイヘイブギー』を歌うことを禁じられたという。

ここで途方に暮れたひばりが辞めると言い、母親もおろさせてもらうと言ったことから、劇場が困り果て、問い合わせたところ、『ヘイヘイブギー』はいけないけれど『東京ブギ』なら良いということ折衷案が出された。その経緯については、「ところが、わたしは『東京ブギ』はあまり好きではなかったのでうたったことがなかったのです。(中略)みんなでわたしのことを『かわいそうだ』と言って、同情してくれました」と恨み言がつづられている。

続けて、ハワイ公演のときに音楽著作権協会から「服部良一作曲のブギをうたってはいけない」という通知状が来たことについては、「そういうときの悲しさを思い出すと、わたしは、今、若い人たちにあんなことを絶対にしてはいけない、と思います」とも記している。