道頓堀のうなぎ屋の音楽隊に入り、編曲も始めて音楽家に

音楽隊解散後には大阪放送局の大阪フィルハーモニック・オーケストラのメンバーになり、ロシア人のエマヌエル・メッテル氏に師事。その傍ら、夜は道頓堀のカフェーで、さらにダンスホールで演奏するうち、東京から来たディック・ミネの誘いや、メッテルから和声楽を学んだ良一に師事したいというユニオンのバンマス・菊地博の要請に応じて上京する。

良一のもとで学びたいという仲間たちがどんどん増え、「響友会」ができると、良一は月謝をとらず、教える立場でありながら、夜食の用意をしたり、コーヒーや酒も飲ませたりという歓待ぶりだった。学んだことは人に教えた方が良い、お金を払ってでも弟子をとった方がいいというのは、いずれも「メッテル式」の教えで、この響友会は5年近く続いたという。

その後、ユニオン・ダンスホールをやめてニットーレコードの専属になった良一は、作曲家契約をし、音楽監督となり、月給も固定給で200円となる。大卒初任給が80円という時代に破格の待遇だったが、加えて編曲や作曲ごとにお金が入り、月に600円ほどの実入りになったことで、「待合」遊びを覚える良一。

服部良一氏
写真=時事通信フォト
服部良一氏、作曲家、日本作曲家協会会長、東京音楽祭審査委員長、1980年3月30日

レコード会社と作曲家契約をし、高給取りになって結婚

そんな折、浅草の待合で女将の義理の娘として紹介されたのが、後の妻となる万里子だった。「いかにも素人の娘らしい清純な女性に見えた」万里子に、良一は「一目惚れに近いインスピレーション」を感じたという。

ちょうど待合遊びに飽きが来ていた頃でもあり、コロムビア・レコードからの誘いがあった時期でもあった。そんな折、メッテルにそろそろ結婚しろと言われていたことも思い出し、「結婚するなら、家庭をきちんと守ってくれそうな、真面目な素人娘がいい」ということから、ニットーの重役待遇で“悪友”だった服部竜太郎氏(血縁関係はなし)に気持ちを打ち明けると、「万事のみこみ、話をまとめてくれ」、仲人も夫妻で引き受けてくれた。

こうして良一は、ニットーから作曲編曲料のアドバンスを、誘われたコロムビアからもニットーと契約切れ後に入社する条件でアドバンスをもらい、それらを結婚費用にあてて昭和10年12月8日に帝国ホテルで盛大な披露宴を催した。

しかし、新婚旅行では、熱海で一泊した翌朝、服部竜太郎夫妻に「スグ コラレタシ」という電報を送る。「二人だけでは話がなくて困る」という変人極まる理由からだったが、その後の家庭生活は順風満帆だった。