昭和の歌謡界で最も成功した作曲家である服部良一。笠置シヅ子に「東京ブギウギ」などの名曲を提供したことは、ドラマ「ブギウギ」(NHK)でも描かれた。朝ドラについての著作がある田幸和歌子さんは「『ブギウギ』で草彅剛さんが演じている羽鳥のイメージどおりの天才作曲家というべきだが、ドラマでは描かれない苦労もあった」という――。

草彅剛が好演する天才作曲家・羽鳥のモデルは服部良一

ドラマ「ブギウギ」第19週では、ついに名曲「東京ブギウギ」が誕生。そのヒットを機に、福来スズ子(趣里)が「ブギの女王」と呼ばれるようになり、続く第20週ではスズ子が新曲を羽鳥善一(草彅剛)に依頼するものの、忙しさから作曲がなかなか進まない様子が描かれた。

映画『醉いどれ天使』で「ジャングル・ブギー」を歌う笠置シズ子
映画『醉いどれ天使』で「ジャングル・ブギー」を歌う笠置シズ子(写真=Toho Company © 1948/PD-Japan-organization/Wikimedia Commons

波瀾はらん万丈のスズ子の人生が描かれる本作でも、いつでもブレず、奇想天外の言動により、登場するだけで視聴者を「ズキズキワクワク」させるのが、“天才”羽鳥を演じる草彅剛である。

「東京ブギウギ」誕生のエピソードについて、ドラマでは満員電車の中で羽鳥の頭の中にブギのリズムとメロディーが浮かび、電車を降りた羽鳥が喫茶店に駆け込むと紙ナプキンにメロディーを書き殴り、それを手にスズ子の家に急ぐ描写があったが、これがモデルとなった服部良一の史実通りというところにも、“天才性”が感じられる。

そこで改めて服部良一の人物像を自伝『ぼくの音楽人生』(日本文芸社)などから追ってみたい。

服部良一(以下、良一)は、明治40年10月1日に大阪・本庄で生まれる。

父は久吉、母はスエといい、姉2人、妹2人の5人きょうだい。父の家は尾張の人形師で、祖父のときに大阪に移ったが商売にならず、昼間は武器の工場で働きつつ、母が毎夜内職で生計を助けていた。

貧しい人形師の子として生まれ、苦学していた少年時代

貧しかった良一の西洋音楽への目覚めは、実は近くの教会で歌っていた賛美歌だった。その唱歌の才は、尋常小学校に入学するとみんなのお手本にされるほどで、おまけに品行方正、学業優秀の優等生で級長などを務め続けたという。

しかし、家計が苦しいために小学校5年で新聞配達を始め、商人の道へ。尋常高等小学校では卒業生総代も務めたが、卒業後は貿易商での住み込みや、大阪電通での仕事をしながら、夜学に励む。

そんな良一を音楽に引き戻したのが、「出雲屋」といううなぎ屋チェーンに見習い奉公に出ていた姉・久枝の手紙だった。道頓堀の出雲屋で「少年音楽隊」を作るからと、良一に入隊を勧めたのだ。そこで良一は、学科試験も調音テストもトップの成績で合格。音楽への道を歩み出す。

入隊後も飛びぬけた成績で、他の隊員より大幅な昇給を得る一方、夜学にも励み、優秀な成績で卒業。一方、創作活動の原点は、音楽隊でオーボエ担当からサキソホンバンドのリーダーに転向し、楽譜が全くなかったことから「かっぽれ」「安来節」などを編曲、演奏したことだった。

道頓堀のうなぎ屋の音楽隊に入り、編曲も始めて音楽家に

音楽隊解散後には大阪放送局の大阪フィルハーモニック・オーケストラのメンバーになり、ロシア人のエマヌエル・メッテル氏に師事。その傍ら、夜は道頓堀のカフェーで、さらにダンスホールで演奏するうち、東京から来たディック・ミネの誘いや、メッテルから和声楽を学んだ良一に師事したいというユニオンのバンマス・菊地博の要請に応じて上京する。

良一のもとで学びたいという仲間たちがどんどん増え、「響友会」ができると、良一は月謝をとらず、教える立場でありながら、夜食の用意をしたり、コーヒーや酒も飲ませたりという歓待ぶりだった。学んだことは人に教えた方が良い、お金を払ってでも弟子をとった方がいいというのは、いずれも「メッテル式」の教えで、この響友会は5年近く続いたという。

その後、ユニオン・ダンスホールをやめてニットーレコードの専属になった良一は、作曲家契約をし、音楽監督となり、月給も固定給で200円となる。大卒初任給が80円という時代に破格の待遇だったが、加えて編曲や作曲ごとにお金が入り、月に600円ほどの実入りになったことで、「待合」遊びを覚える良一。

服部良一氏
写真=時事通信フォト
服部良一氏、作曲家、日本作曲家協会会長、東京音楽祭審査委員長、1980年3月30日

レコード会社と作曲家契約をし、高給取りになって結婚

そんな折、浅草の待合で女将の義理の娘として紹介されたのが、後の妻となる万里子だった。「いかにも素人の娘らしい清純な女性に見えた」万里子に、良一は「一目惚れに近いインスピレーション」を感じたという。

ちょうど待合遊びに飽きが来ていた頃でもあり、コロムビア・レコードからの誘いがあった時期でもあった。そんな折、メッテルにそろそろ結婚しろと言われていたことも思い出し、「結婚するなら、家庭をきちんと守ってくれそうな、真面目な素人娘がいい」ということから、ニットーの重役待遇で“悪友”だった服部竜太郎氏(血縁関係はなし)に気持ちを打ち明けると、「万事のみこみ、話をまとめてくれ」、仲人も夫妻で引き受けてくれた。

こうして良一は、ニットーから作曲編曲料のアドバンスを、誘われたコロムビアからもニットーと契約切れ後に入社する条件でアドバンスをもらい、それらを結婚費用にあてて昭和10年12月8日に帝国ホテルで盛大な披露宴を催した。

しかし、新婚旅行では、熱海で一泊した翌朝、服部竜太郎夫妻に「スグ コラレタシ」という電報を送る。「二人だけでは話がなくて困る」という変人極まる理由からだったが、その後の家庭生活は順風満帆だった。

かなりの子煩悩で「カマチー」と独特の言い方でかわいがる

家庭での良一の様子がよくわかるのは、自伝への長男・服部克久の寄稿「父の想い出」から。

良一は子煩悩で、子供を殴ったこともきつく怒ったこともなかったというが、うれしいにつけ悲しいにつけ、ビールを飲んでは口ぐせの「涙ぐましいねえ!」を発したそうだ。

また、アルコールが回ると「良一語録」とも言うべき独特な言い回しが飛び出したが、その一つが「カマチー(かわいい)」。酔っぱらうと子供をべろべろ舐めたがり、子供たちが必死で逃げまくると、「本当にお前たちはカマチーだねえ」と言ったという。

他に、克久の小さな頃には、自分の息子を「本当にこいつはいいやつで……」と周りに紹介し、恥ずかしくなった克久が父の背広の裾を引っ張るまでやめなかったというエピソードや、脳梗塞で倒れて口が不自由になってから筆まめになったことなどが綴られている。

その一方、仕事場にこもって徹夜することも多く、「僕らが学校へ行く時間なんかでも、まだ前の晩から起きていて、母が後ろから棒で父の背中を押しているのに出くわしたりして、大変だなあ、と子供心にも感じたものだ」と振り返る。

長男の克久も作曲家になり「ザ・ベストテン」などで有名に

そうした両親を見ながらも、長男・克久は父と同じ作曲家となり、朝ドラ「わかば」(2004年度下半期)の主題歌や、「ザ・ベストテン」「クイズ100人に聞きました」(ともにTBS)のテーマ曲を作ったことなどで知られている。さらに、その長男で良一の孫・服部隆之も、父と同じくパリに留学し、音楽の道に進む(「ブギウギ」の主題歌も作曲)。自分から三代にわたって作曲家になったことは、良一にとってさぞうれしかった出来事だろう。

ところで、良一の自伝の賛美歌との出会いのくだりに、「子供のころのぼくの声は女の子のように澄んだ美しい音色のボーイソプラノだった」という記述がある。その表現から、下衆だとは思いつつも、どうしても想起されてしまうのが、世界的にも類を見ない数多の少年たちへの性加害問題が報じられているジャニー喜多川の存在だ。

ジャニーは服部良一と笠置シヅ子が1950年にハワイやロサンゼルスなど米国巡業を成功させた際に、ロスの公演先となったのが、ジャニーの父親・喜多川諦道が米国別院主監を務めていたこともある高野山真言宗の直営会場「高野山ホール」だったこと。二人のために買い物や世話などをしていたのが、ジャニーだったということは、広く知られている。

次男の吉次は「ジャニー喜多川から性加害を受けた」と告発

そして、その出会いが、良一の次男・服部吉次氏への性加害につながるとは――。良一とジャニーは親交を結び、吉次氏は小学生の頃、週末ごとに服部邸に泊まりにくるジャニーから100回近く繰り返し性加害を受けていたという。そのことを吉次氏は父親の良一らには打ち明けられず、2023年、約70年の時を経てようやく告白した彼の身心共に背負わされてきた深い傷を思うと、胸が苦しくなる。

日本記者クラブでの「ジャニーズ性加害問題当事者の会」会見に出席した服部吉次氏
撮影=プレジデントオンライン編集部
日本記者クラブでの「ジャニーズ性加害問題当事者の会」会見に出席した服部吉次氏=2023年9月7日、東京都千代田区

それと同時に、ジャニーが変声前のボーイソプラノの「ジャニーズJr.」の少年たちをデビュー組のライブの合間や、Jr.の舞台で重用したこと、Jr.の舞台では何の説明もなく「服部良一コーナー」がたびたび設けられていた不自然さなどが、一気に結びつき、背筋が寒くなる。

話題を変えよう。良一が笠置シヅ子と出会ったのは、新しく「松竹歌劇団」が発足するとき。派手なホットジャズが書けて指揮のできる人として良一に白羽の矢が立ったのだが、一座の花形が大阪の歌姫・笠置だった。

「ぼくは、どんなすばらしいプリマドンナかと期待に胸をふくらませた」という良一の、笠置の第一印象は、こうだ。

「薬びんをぶらさげ、トラホーム病みのように目をショボショボさせた小柄の女性がやってくる。裏町の子守女か出前町の女の子のようだ」

しかし、その夜の舞台稽古で思わず目を見張ったという。

「笠置は復興を急ぐ日本が立ち上がろうとする活力の象徴」

「『クイン・イザベラ』のジャズ・リズムにのって飛び出してきた笠置は別人で、三センチほどもある長い付けまつげの下の目はバッチリ輝き、ぼくが棒をふるオーケストラにぴたりと乗って、『オドッレ、踊ッれ』と掛け声を入れながら、激しく歌い踊る。その動きの派手さとスイング感は、他の少女歌劇出身の女の子とは別格の感で、なるほど、これが世間で騒いでいた歌手かと、納得した」

かくして服部良一×笠置シヅ子の名コンビが誕生。「東京ブギウギ」について、良一は自伝でこう記している。

「笠置シヅ子は、復興を急ぐ敗戦日本の、苦しさから立ち上がろうとする活力の象徴のように大衆に感じられたのではあるまいか。そして、底抜けに明るい『東京ブギウギ』は長かった戦争時代をふっ切らせ、やっと平和を自分のものにしたという実感を味あわせてくれる(原文ママ)……と、多くの人がこもごもに語った。東京ブギウギは平和の叫びだ、と」
服部良一『ぼくの音楽人生』(日本文芸社)

笠置の葬儀委員長を務めた後、1993年に85歳で死去

そこから「さくらブギウギ」「ヘイヘイブギー」「博多ブギウギ」「ジャングル・ブギー」「大阪ブギウギ」「北海ブギウギ」「ブギウギ時代」「ホームラン・ブギ」「大島ブギー」「名古屋ブギウギ」「買物ブギー」「びっくりしゃっくりブギ」「ジャブジャブ・ブギウギ」「道行きブギ」「カミナリブギ」「七福神ブギ」「芸者ブギ」などのブギを量産した服部良一×笠置シヅ子コンビ。

『笠置シヅ子の世界 〜東京ブギウギ〜』「買物ブギー」 ℗Nippon Columbia Co., Ltd /NIPPONOPHONE

ちなみに、1985年に笠置が卵巣がんのため、70歳でこの世を去ったとき、葬儀委員長を務めたのも、服部良一だった。そんな良一は、1993年、85歳で逝去。そのとき国民栄誉賞を受賞している。実に太く長い、85年の人生だった。

昭和59年に脳梗塞の手術を受けた際には、担当医から「普通、他の人にはない所に血管が一本通っています」と言われたことがあるというエピソードも。

これを受け、克久は寄稿で「もしかすると、それが、脳になんらかの刺激を与えて、服部良一を作り上げたのかも知れない。まんざら、あり得ない話でもないと思うのは、昔、酔った後、耳の所がザワザワしてうるさいと母によく訴えていたことを記憶しているからだ」と記しているのが、実に印象的だ。