天下分け目の合戦はあっけなく家康の勝利で終わった

白峰氏は「山中エリアに布陣していた石田方の主力諸将は、一方的に家康方の軍勢に攻め込まれて『即時』に敗北したのが事実であった。従来の通説では、合戦当日(9月15日)の午前中は一進一退の攻防であり石田方の諸将は善戦したとされてきたが、このように石田方の主力諸将は関ヶ原に打って出て家康方の軍勢と華々しく戦ったわけではなかった」と論じている(『関ヶ原大乱、本当の勝者』)。

呉座勇一『動乱の日本戦国史 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』(朝日新書)
呉座勇一『動乱の日本戦国史 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』(朝日新書)

加えて、(慶長5年)9月20日付近衛信尹宛近衛前久書状(「陽明文庫」)でも、前久は関ヶ原合戦について、東軍が「即時」に切り立てて「大利(大勝利)」を得たと伝えている。東軍関係者以外の同時代人が伝える戦況情報という点で軽視できない。同書状では小早川秀秋の裏切りにも言及しているが、秀秋の裏切りによって大谷吉継が討たれたとのみ記しており、秀秋の逡巡や「問鉄砲」、吉継の善戦については語っていない。通説が語る関ケ原合戦の展開は後世の創作である、と白峰氏は結論づけている。

白峰説はおおむね首肯できるが、小早川秀秋が開戦前から不審な動きをしていたため石田三成らが大垣城から関ヶ原に移動したという推定に関しては、根拠としている吉川広家の証言などの信用性から疑問が残る。

総じて白峰氏は、「問鉄砲」による劇的な勝利を否定しようとするあまり、開戦前に東軍の圧倒的優位が確立していたことを強調しすぎているように感じられる。先入観に囚われず通説を根本から問い直すことは重要だが、インパクトの強い新説を提示することじたいが目的になってしまったら本末転倒である。白峰氏の「問鉄砲」否定論の功績を多としつつ、白峰説を批判的に継承していくことが今後の関ヶ原合戦研究では求められよう。

呉座 勇一(ござ・ゆういち)
国際日本文化研究センター助教

国際日本文化研究センター機関研究員。1980年、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。48万部突破のベストセラー『応仁の乱』のほか、『戦争の日本中世史』『頼朝と義時』『一揆の原理』など著書多数。