原理を理解していなかった源内は「電気学の祖」とは言えない

エレキテルは電気学の歴史には必ず登場する電気装置である。その修理・復元に成功したのは、日本では源内が最初だったことは間違いない。それがいかに困難な作業だったかは、すでに見た通りである。では、彼こそ我が国電気学の祖と言ってよいのだろうか。残念ながらその点は疑問である。

源内がエレキテルの仕組みを理解したといっても、機械的に理解しただけで、原理を把握したわけではない。源内の電気理解の基本は、中国に由来する陰陽二元論に基づく火一元論にあり、エレキテルの放電をその証拠だと考えるまでが限界だった。

しかも継続的に実験を行ったわけでも、電気学の紹介に努めたわけでもない。あくまでも一介の好事家として関わっただけである。

もっとも当時、電気学は西洋においてもようやく始まったばかりだった。有名なフランクリンの凧の実験によって、雷が電気であることが確認されたのが、この20年ほど前である。理論的にも、電気の本質は電気流体にあると考えられ、フランスのデュ・フェの二流体説と、フランクリンの一流体説が争っている段階で、未だ核心には迫っていなかった。

なぜスペシャリストにはなれなかったのか

オーム、アンペール、ファラデーらによって電気学が確立されるのは、そのさらに半世紀以上後の19世紀前半のことである。

日本における電気学の本格的研究も、源内から30年あまり後の橋本宗吉(曇斎)を待たなければならなかった。

なぜ源内の事業はかくも失敗を重ねたのだろうか。源内の移り気な気性や見通しの甘さもあっただろう。だが、それよりも彼の起業方法や経営方法に問題があったのではないだろうか。

源内が事業に挑むときには、たいてい最初に新しい発見とか、モノづくりがあった。いわば発明家とか山師とかの発想である。火布では石綿の発見、鉄山事業では新しい鉱脈の発見。陶器、羅紗などモノづくりでは、モデルとなる外国産の完成品がまずあった。そこから遡って技術を探り、同等の国産品を作り出そうとしたのである。