ドイツ発の治療器具だったエレキテルを源内が長崎で入手
源内の時代、日本ではまだエレキテルは作られていなかった。それを彼が長崎で入手し、修理・復元したのである。このエピソードはよく知られているが、問題は同時に源内がエレキテルを発明したという話も流布されていることである。それをもって彼を日本電気学の祖とみなす者もある。もちろんこれらは誤解に基づく買い被りである。
故障していた起電機の修理・復元に成功したこと自体大きな業績ではあるが、あくまでも修理したのであって、発明したわけではない。このことは、彼の正当な評価のために再確認しておくべきだろう。
源内が修理した起電機の仕組みは次の通りである。
木箱の中にガラス円筒とそれに接する金箔が収まっている。箱の外には円筒とつながるハンドルがある。このハンドルを回して円筒を回転させると、ガラスと金箔の摩擦によって静電気が発生する。これを蓄電器に溜め、銅線によって外部に導いて、放電させるのである。
エレキテルという名称は、オランダ語の「エレクトリシテイトelektriciteit」(電気、電流)がなまったものだった。
壊れたエレキテルを6年かけて修理した源内の執念
源内がエレキテルを入手したのは、明和7年(1770年)、二度目の長崎遊学の折りだった。この器械はオランダ人が長崎に持参し、日本に残したものだったと考えられているが、入手の経緯はよくわかっていない。通説では、古道具屋から購入したか、あるいはすでに他界していた長崎通詞西善三郎宅にあったものを譲り受けたとされている。
入手時、器械は大きく破損していたため、源内はこれを自分の手で修理・復元しようと考えた。とはいえ、さすがの源内先生もすぐには手をつけられなかった。源内のエレキテルに関する知識の情報源は、もっぱら兄弟子の後藤梨春が著した『紅毛談』(オランダばなし)だった。この書は、梨春がオランダ人から聞いたオランダの地理、文化、産物、医薬などを記述したもので、そこに「えれきてり」、すなわちエレキテルの図解も記載されていた。ただこの図解には曖昧な部分があって、それだけでは仕組みを十全に把握できなかったのである。
仕方なく放置したまま6年が過ぎた。その間、源内は通詞の助けなども借りながらオランダ語の文献を通して仕組みを勉強し、修理方法を探究した。こうした努力の末に、ようやく復元に成功したのだった。