※本稿は、新戸雅章『平賀源内 「非常の人」の生涯』(平凡社新書)の一部を再編集したものです。
300年前、高松藩に生まれ幼少期からひらめきを見せた
平賀源内が生まれたのは、江戸中期の享保21年(1728年)とされている。出生の記録は残されていないので、没年齢から逆算して推測した出生年である。誕生の地は四国東部の高松藩志度浦。現在の香川県さぬき市志度である。瀬戸内海につながる風光明媚な志度湾に面し、気候温順な土地である。村落内には四国八十八カ所霊場の八六番目札所の志度寺があり、その門前町でもあった。
源内の幼名は四方吉・嘉次郎。諱(本名)は国倫である。号は鳩渓。父白石茂左衛門(良房)はこの地を治める高松藩の御米蔵番を務める下級武士だった。待遇は一人扶持切米三石。とても生計は立てられない捨扶持ほどの俸給だった。このため白石家の本業は農業で、そのかたわら蔵番に出仕していたと見られている。
母は山下氏の娘。兄弟は兄が二人か一人、姉妹は一姉四妹または七妹とされている。二人の兄は早世し、妹も次々亡くなり、成人したのは源内と15歳年下の妹里与だけだった。
幼い頃から利発だった源内はさまざまなからくりを工夫して、家人や村人たちを驚かせたという。なかでも、「御神酒天神」の掛け軸は大人たちを驚嘆させた。
天神の姿が描かれた掛け軸の前に御神酒を供えると、それを見て源内少年が仕掛けの糸を引っ張る。すると、裏側の赤い紙が薄い紙に描かれた天狗の顔の部分に来て、その顔が赤く変わるというものである。たわいない仕掛けといえばそれまでだが、源内のからくりの才を示すとともに、鬼面人を驚かす生き方の萌芽と見ることもできるだろう。
本草学や鉱山開発に熱中した源内だが、代名詞は「エレキテル」
源内の業績といえば、やはりこれを落とすわけにはいかない。言うまでもなく、彼の代名詞となった「エレキテル」である。
エレキテルとは何か。簡単に言ってしまえば、摩擦を利用した静電気の発生装置である。
人類が最初に生み出した電気は摩擦電気だった。古代には琥珀を毛皮でこすって作っていた。これを機械的に生み出し、貯留するための装置が摩擦起電機、すなわちエレキテルである。最初に製作したのは真空の研究で有名な17世紀ドイツの科学者オットー・フォン・ゲーリケだった。その後、麻痺や疼痛など諸病の治療や見世物に使われるようになって西洋各国に広まったのである。
ドイツ発の治療器具だったエレキテルを源内が長崎で入手
源内の時代、日本ではまだエレキテルは作られていなかった。それを彼が長崎で入手し、修理・復元したのである。このエピソードはよく知られているが、問題は同時に源内がエレキテルを発明したという話も流布されていることである。それをもって彼を日本電気学の祖とみなす者もある。もちろんこれらは誤解に基づく買い被りである。
故障していた起電機の修理・復元に成功したこと自体大きな業績ではあるが、あくまでも修理したのであって、発明したわけではない。このことは、彼の正当な評価のために再確認しておくべきだろう。
源内が修理した起電機の仕組みは次の通りである。
木箱の中にガラス円筒とそれに接する金箔が収まっている。箱の外には円筒とつながるハンドルがある。このハンドルを回して円筒を回転させると、ガラスと金箔の摩擦によって静電気が発生する。これを蓄電器に溜め、銅線によって外部に導いて、放電させるのである。
エレキテルという名称は、オランダ語の「エレクトリシテイトelektriciteit」(電気、電流)がなまったものだった。
壊れたエレキテルを6年かけて修理した源内の執念
源内がエレキテルを入手したのは、明和7年(1770年)、二度目の長崎遊学の折りだった。この器械はオランダ人が長崎に持参し、日本に残したものだったと考えられているが、入手の経緯はよくわかっていない。通説では、古道具屋から購入したか、あるいはすでに他界していた長崎通詞西善三郎宅にあったものを譲り受けたとされている。
入手時、器械は大きく破損していたため、源内はこれを自分の手で修理・復元しようと考えた。とはいえ、さすがの源内先生もすぐには手をつけられなかった。源内のエレキテルに関する知識の情報源は、もっぱら兄弟子の後藤梨春が著した『紅毛談』(オランダばなし)だった。この書は、梨春がオランダ人から聞いたオランダの地理、文化、産物、医薬などを記述したもので、そこに「えれきてり」、すなわちエレキテルの図解も記載されていた。ただこの図解には曖昧な部分があって、それだけでは仕組みを十全に把握できなかったのである。
仕方なく放置したまま6年が過ぎた。その間、源内は通詞の助けなども借りながらオランダ語の文献を通して仕組みを勉強し、修理方法を探究した。こうした努力の末に、ようやく復元に成功したのだった。
機能するようになった静電気発生装置を江戸で見世物に
先ほど筆者が源内はエレキテルを修理したのであって発明したのではないと書いた。これは決して彼の業績を貶めるためではない。その修理作業の困難さを理解する前提としてあえて確認したのである。
復元に際して源内が参考にしたのは、破損した現物と曖昧な図解、そして判読できない蘭語の文献のみだった。詳細な設計図も解説書もなければ、指導する技術者もいない。もちろん、インターネットなどなかった。その乏しい情報の中での復元作業は『解体新書』の翻訳にも匹敵する難事業だったはずである。この点はいくら賞賛してもし過ぎということはないだろう。
源内は西洋ではエレキテルが見世物に使われていることを知っていた。そこで彼も復元した器械を見世物に供することにした。
集まった人々にエレキテルの端末を触らせ、ビリっと感電させる。わっと悲鳴を上げて手を離す者、ひっくり返って尻もちをつく者、驚きとざわめきが一座に広がる。このアトラクションは大人気となり、それとともに源内の名も全国に知れ渡るようになった。
もっとも見世物としては、一瞬、驚かせるだけである。一度体験すれば充分というわけで、間もなく飽きられてしまった。本来の電気治療法にも使おうとしたが、これもほとんど普及しなかった。
エレキテルを15台製作しセレブに売って生活費を稼いだ
源内は生前エレキテルを15台製作し、一部を高貴な人々に販売して暮らしの足しにしたと伝えられている。それによって窮地に陥りがちな源内の懐を少しは潤したと見られている。ただし、現存しているのは2台のみである。1台は、東京都墨田区の郵政博物館(旧逓信総合博物館)に収蔵され、国の重要文化財(歴史資料)に指定されている。もう1台は源内の地元さぬき市志度に開設された平賀源内記念館に保存されている。ただしこちらの方は、元はあったと思われる蓄電瓶が欠けている。
郵政博物館の器械を見ると、外箱には本草学者らしく植物模様の美しい塗装が施され、源内の工芸デザイナーとしての一面をうかがわせる仕上がりになっている。源内のエレキテルについては、蘭学者桂川甫周の弟森島中良が『紅毛雑話』の中で正確に記述し、これにより製作方法が世に広まることになった。
ほかにエレキテルの製作者としては、後述する日本電気学の父橋本宗吉や幕末の偉才佐久間象山がいる。宗吉のものは源内のものとほぼ同じだったが、象山のものは時代が百年近く下るだけに仕組みが違っていた。一次コイルと二次コイルを備え、スイッチを開閉し、電磁誘導を起こすことによって電圧を生じさせるものだった。誘導コイル型と呼ばれているタイプで、当時はこれもエレキテルの仲間と認識されていた。
原理を理解していなかった源内は「電気学の祖」とは言えない
エレキテルは電気学の歴史には必ず登場する電気装置である。その修理・復元に成功したのは、日本では源内が最初だったことは間違いない。それがいかに困難な作業だったかは、すでに見た通りである。では、彼こそ我が国電気学の祖と言ってよいのだろうか。残念ながらその点は疑問である。
源内がエレキテルの仕組みを理解したといっても、機械的に理解しただけで、原理を把握したわけではない。源内の電気理解の基本は、中国に由来する陰陽二元論に基づく火一元論にあり、エレキテルの放電をその証拠だと考えるまでが限界だった。
しかも継続的に実験を行ったわけでも、電気学の紹介に努めたわけでもない。あくまでも一介の好事家として関わっただけである。
もっとも当時、電気学は西洋においてもようやく始まったばかりだった。有名なフランクリンの凧の実験によって、雷が電気であることが確認されたのが、この20年ほど前である。理論的にも、電気の本質は電気流体にあると考えられ、フランスのデュ・フェの二流体説と、フランクリンの一流体説が争っている段階で、未だ核心には迫っていなかった。
なぜスペシャリストにはなれなかったのか
オーム、アンペール、ファラデーらによって電気学が確立されるのは、そのさらに半世紀以上後の19世紀前半のことである。
日本における電気学の本格的研究も、源内から30年あまり後の橋本宗吉(曇斎)を待たなければならなかった。
なぜ源内の事業はかくも失敗を重ねたのだろうか。源内の移り気な気性や見通しの甘さもあっただろう。だが、それよりも彼の起業方法や経営方法に問題があったのではないだろうか。
源内が事業に挑むときには、たいてい最初に新しい発見とか、モノづくりがあった。いわば発明家とか山師とかの発想である。火布では石綿の発見、鉄山事業では新しい鉱脈の発見。陶器、羅紗などモノづくりでは、モデルとなる外国産の完成品がまずあった。そこから遡って技術を探り、同等の国産品を作り出そうとしたのである。
発想は良いが、事業を継続していく経営力はなかった
ここにおいて源内の創造的能力は大いに発揮された。ここまではよいだろう。しかし産業として成り立たせるためにはそれだけでは足りない。組織の立ち上げ、資金の調達、一定の生産量と品質の確保、販路の開拓など、さまざまな条件をクリアしなければならない。ところが源内の場合には、思い付くと、あとはなんとかなるだろうと、見切り発車的に着手してしまう。文学者の芳賀徹氏が『平賀源内』(1981年)で「能動的楽天主義」と呼んだ源内の癖である。創業者には必要な資質かもしれないが、経営者としてやはり欠けるところがあったと言わざるをえない。
源内の失敗の要因はそれだけではない。もうひとつの大きな要因はやはり時代の先を行き過ぎたことにある。つまり早きに失したのである。
天才ゆえ先進的すぎて世間に理解されないという悲劇
事業を立ち上げるのには早過ぎても駄目、遅過ぎても駄目とよく言われる。時代の半歩先くらいがちょうどよいというのである。
ところが源内のような天才的人物というものは、とかく時代の一歩も二歩も、いや三歩も四歩も先を行きたがる。凡人が求めるような半歩先の成功などでは満足できないのである。
当然、そのアイデアは人々の無理解という悲劇に直面する。しかし当人は自分の素晴らしい発想がなぜ理解されないか、わからない。ひょっとしたら創意工夫がまだ不十分だったのか。だとすれば、もっとよいアイデアを出せば認められるはずだ。そうやってますます過激で先鋭的になり、ますます見放されていくのである。天才の悲劇というしかないだろう。
しかも源内の時代、江戸の商業経済が発展したとはいえ、人々が産業の育成に手を貸すほどには社会が成熟していなかった。協力者と期待した郷里の知友、朋輩もその意識はまだ希薄で、源内の思いとの間には大きな隔たりがあった。
源内の孤軍奮闘もこのような状況に置いてみないと、その苦労は理解できないだろう。