晩年は秀吉によって家康と引き離され、京都で死す
近年の研究では信康が処分されたのは、織田信長の命ではなく、家康が主導したといわれている。『当代記』では、信康が「父家康公の命を常に違背し、信長公をも軽んじたてまつられ、被官(=家臣)以下に情なく非道を行わるる間かくのごとし。この旨を去月酒井左衛門尉をもって信長へ内証を得らるる所、左様に父・臣下に見限られぬる上は是非に及ばず。家康存分次第の由返答あり」と、家康が信長の同意を得るために忠次を使者として遣わしたと記している。
そうなると、忠次を悪者にしたのは、家康を嫡男殺しの汚名から解放するための『三河物語』の創作ということになる。同犯の兄の名前を出さないところも確信犯だ。むしろ、兄を表に出さないように、意識的に忠次を悪者にした可能性が高い。
後日、忠次が子・家次の禄高の低さを嘆くと、家康は「お前でも子がかわいいか」と皮肉ったといわれているが、これも創作だろう。
天正14(1586)年10月に家康が上洛した際、忠次も付き随った。秀吉は忠次に京都桜井の宅地、在京料として近江に1000石を与えた。天正16(1588)年に忠次は致仕して、慶長元(1596)年に京都で死去した。享年70。勘ぐりすぎかもしれないが、秀吉は知恵者の忠次を家康から引き離そうとしたのではなかろうか。
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。