頭上から矢を射られる恐ろしい堀を持つ山中城を決死で攻略

豊臣軍は、山中城へと突き進み、「どうせ死ぬなら、ここで死ねばいいじゃない」とばかりに猛攻撃を仕掛けた。三ノ丸・大手口を攻めた者たちが、北条兵からの猛烈な銃撃を受け、「五、六十も鉄炮に手を負、死生の者有之候」という凄惨な損害を晒した。それでも豊臣将士は攻めの手を緩めなかった(『渡邊水庵覚書』)。我先にと進んで射殺された仲間を障子堀に蹴落とし、その上を走っていく兵もいたかもしれない。

3月29日、7万の豊臣軍は、たった1日で山中城を「のりくつし(乗り崩し)」た(『家忠日記』)。

戦闘は朝から開始され、落城後すぐに宿営地の構築を急いでいるから、本丸を制圧したのは夕方ぐらいであったと推測される(西股総生『戦国の軍隊』角川ソフィア文庫、2017)。
  文字どおりの人海戦術が勝利した。もしも兵站が充実していたら、こうはいかなかっただろう。

氏政は全長9kmにもなる防衛ラインに領民を閉じ込める

衝撃を受けたのは、氏政の重臣たちだけではない。北条方の領民であった。

氏政の作戦は、豊臣軍に兵糧を集めさせず、長期戦に持ち込むことにあっただろう。ところが最初の防衛戦域が決壊した。
  とはいえ本国相模の小田原城は、さすがにこのような力攻めで陥落しないはずである。

小田原城には全長9kmもの大掛かりな「惣構そうがまえ」(堀と土塁による防衛ライン)があって、当時はここに領民も収容した。目的は「避難民の保護」ではなく、「領民の逃散と自由の防止」にある。

ここに領民を閉じ込めることによって、敵軍との取引や敵前逃亡を抑え込むのだ。小田原の兵糧を敵軍に売らせない。これが氏政の狙いであった。

だが、「これってもしかして……」と思い始めた領民たちは、ここで北条の「国家」から、日本の「国家」の中心にある豊臣家に鞍替えして、活路を見出すことにした。