兵糧を現地調達できなくなった征伐軍の誤算
北条家は、大名と領民の結びつきを誇り、自分たちを「御国」と自認していた。北条領内では、例えば「御用」と唱えて15~70歳までの領民を徴発(非常時動員)する用意をしていた(『戦国遺文 後北条氏編』3133~3148号文書)。また、武蔵松山城主の上田憲定が町人に籠城を命令していたように、敵軍と領民の交渉による現地調達を妨害することが可能だった。
単純な話かもしれないが、戦国を勝ち抜いた北条家ならではの、当時の常識を覆す大変な体制である。
これを事前に把握できていなかったのが、秀吉の誤算であった。
ここに豊臣軍は、戦国時代には当たり前に使われていた現地調達が使えなくなり、飢餓に苦しめられることになった。
北条軍は、30年ほど前の永禄4年(1561)に、この方法を学んだのだろう。この時、越後の長尾景虎(上杉謙信)が全軍10万とも称される関東将士を糾合して小田原城を攻めてきた。有効な手立てを考え出せない北条軍は籠城に徹するしかなかった。そこでやったことと言えば、遊撃隊による兵糧庫の襲撃、そして輸送路の切断で、敵軍の補給を絶つことだけであった。
軍略の天才・秀吉は兵士に餓死か討ち死かの二択を強いた
すると、アクシデントが北条軍に幸いした。
北条領の百姓たちが恐れをなして「逃散」つまり土地を捨てて逃げ出していたのだ。
すると、敵軍にものを売る民衆がいない。敵軍は兵糧を購入できずに、飢えて苦しむ。かたや北条家は、開戦前から籠城に備え、伊勢経由で兵糧を買い込んでいた。このため、兵糧物資に窮乏する敵軍は撤退を余儀なくされた。北条軍の大勝利であった。
この成功体験を人工的に発生させたのが、今回の対豊臣戦である。兵糧なしでは、撤退するしかない。どうする秀吉?
だが秀吉はやっぱり常識を超えた天才だと思う。
どうやら「北条軍の思惑にハマったら負けだ」と気付いたようだ。そこで兵糧欠乏のピンチを、チャンスに転ずることにした。
4000人もの人数が立て籠もる堅固な伊豆の山中城は、普通の軍勢が攻めきれそうにない要害である。では、もはや食料がなく、なにがなんでも落とすしかない状況ならどうか?
力攻めせよと伝えるしかない。
兵糧不足で餓死するか、派手に戦死するかの二択なら、武士たちの思いがどこに着地するかは自明のことである。しかも舞台は戦国最後となるであろう天下の大戦だ。
頭上から矢を射られる恐ろしい堀を持つ山中城を決死で攻略
豊臣軍は、山中城へと突き進み、「どうせ死ぬなら、ここで死ねばいいじゃない」とばかりに猛攻撃を仕掛けた。三ノ丸・大手口を攻めた者たちが、北条兵からの猛烈な銃撃を受け、「五、六十も鉄炮に手を負、死生の者有之候」という凄惨な損害を晒した。それでも豊臣将士は攻めの手を緩めなかった(『渡邊水庵覚書』)。我先にと進んで射殺された仲間を障子堀に蹴落とし、その上を走っていく兵もいたかもしれない。
3月29日、7万の豊臣軍は、たった1日で山中城を「のりくつし(乗り崩し)」た(『家忠日記』)。
戦闘は朝から開始され、落城後すぐに宿営地の構築を急いでいるから、本丸を制圧したのは夕方ぐらいであったと推測される(西股総生『戦国の軍隊』角川ソフィア文庫、2017)。
文字どおりの人海戦術が勝利した。もしも兵站が充実していたら、こうはいかなかっただろう。
氏政は全長9kmにもなる防衛ラインに領民を閉じ込める
衝撃を受けたのは、氏政の重臣たちだけではない。北条方の領民であった。
氏政の作戦は、豊臣軍に兵糧を集めさせず、長期戦に持ち込むことにあっただろう。ところが最初の防衛戦域が決壊した。
とはいえ本国相模の小田原城は、さすがにこのような力攻めで陥落しないはずである。
小田原城には全長9kmもの大掛かりな「惣構」(堀と土塁による防衛ライン)があって、当時はここに領民も収容した。目的は「避難民の保護」ではなく、「領民の逃散と自由の防止」にある。
ここに領民を閉じ込めることによって、敵軍との取引や敵前逃亡を抑え込むのだ。小田原の兵糧を敵軍に売らせない。これが氏政の狙いであった。
だが、「これってもしかして……」と思い始めた領民たちは、ここで北条の「国家」から、日本の「国家」の中心にある豊臣家に鞍替えして、活路を見出すことにした。
北条の領民は「勝ち目がない」と豊臣軍に協力した
北条の防戦に協力するため城に入っても、結局勝ち目は薄いのだから、最初から城に入らず、豊臣軍に好意的な態度を示したほうがいい。
山中城が陥落すると、豊臣軍は北条領であるはずの伊豆・相模・武蔵の寺社や集落に「戦地禁制」をたくさん発給した。
戦地禁制の発給は、まず民衆が敵軍に「将士が悪さをしないよう、お触れ書きを出してください」とお願いするところから始まる。要請を受けた敵の大将は「わかりました。あなたのところで、悪いことはさせません」と、将士の狼藉を禁止する禁制を送りつける。受領した現地民は、集落の目立つところにこれを高札として掲げる──という段取りで使われる。
ということは、北条の領民たちが自発的に「わしら関白殿下の御味方になりますんで。北条? やっちゃってください」と申し出たということだ。
秀吉は小田原城に籠城する北条軍に余裕で遊んでいる姿を見せた
戦地禁制は略奪を抑止するためというより、そこを軍勢の宿屋として、また物資補給のための市場として活用するために発給された(乃至政彦『戦国大変』JBpress、2023)。
戦地禁制には原則として「我が兵たちよ、(相手が商品として用意したものだけ特権的に取引するため)押し買いをするな」「(宿舎を勝手に建造しないよう)樹木を伐採してはならんぞ」ということが書いてある。どれも正常な商取引を成立させるのが目的である。
山中城がたった数時間で陥落したことで、寺社・商人・百姓のいくらかは北条方の命令に従わず、それどころか豊臣軍に営業をかけて、禁制を発給させ始めた。「ぜひうちに立ち寄ってください」と客寄せならぬ兵寄せを開始した。これが戦国の兵站だった。
秀吉は小田原城の眼前に石垣の山城を築かせて、遊び呆ける姿を籠城側に見せつけた。現地民の協力あっての遊びぶりだろう。「寄せ手の兵を飢えさせようとする小賢しい作戦も、ほれこのとおり。影も形もなく破綻させてやったぞ。北条氏政よ、とくと降参するがよい」というメッセージでもある。
孤立無援となった北条氏政は降伏して自害し、さらし首に
北関東から、東海道から、さらには奥州からも味方となるはずだった伊達政宗までが軍勢を連れ立って城を取り巻く。豊臣軍が兵糧に窮乏していたのは、山中城を攻める直前までだった。
関東の民衆からの協力を得た豊臣軍は、長期の継戦能力を得て、7月10日までに小田原城は降伏し、氏政と弟の北条氏照が、徳川家臣・榊原康政の陣所に入った。
豊臣軍が勝ったのは、豊臣軍の兵站が用意周到で緻密だったからではない。その物量で民心を北条方から引き剥がし、自軍へと転じさせたことが大きかった。
同月11日、2人は城下の医師・田村長伝の家に入り、「氏政、同弟奥州に腹を御切らせ候」(『家忠日記』)とあるように、速やかに自害させられた。同月16日、京都の「聚楽之橋」において梟首とされた(『兼見卿記』)。
2人の辞世が伝わっている。
氏政の辞世は「雨雲の覆へる月も胸の霧もはらひにけりな秋の夕風」(『上州治乱記』)、または「ふきとふく風なうらみそ花のはる もみち(紅葉)の残る秋あらはこそ」(『北条五代記』)だったと伝えられている。
氏照の辞世は「天地の清き中より生れ来て 旧の住所に帰るべきなり」(『太閤記』)であったとされている。
秀吉は兵糧で苦労したことを教訓とし「太閤検地」を行った
当主の北条氏直は助命され、紀伊高野山に追放された。後に1万石の豊臣大名として返り咲くもほどなく病死。
上杉景勝、毛利輝元、そして徳川家康をも従えた天下人・秀吉を相手に戦って、しかも完全勝利を模索した氏政・氏直父子の気構えは、“戦国最後の侍”といえよう。
ともあれこの勝利は、秀吉に大いなる教訓を与えた。敵軍が領民を抱き込んで徹底抗戦をする場合、大変な兵糧不足に陥ってしまう危険がある。
だから次の戦争に備えて「太閤検地」を実行し、石高制による兵糧の確保と常備を推進させた。
翌々年より始まる壬辰戦争(豊臣軍による朝鮮出兵)の戦時体制は、小田原合戦の反省をベースとして構築されていくのである。