無防備な主君を目の前に「勝てる!」だけで決起した
だが、光秀は斎藤道三のように武略に秀でた「計略と策謀の達人」である。丹波では国人たちの裏をかき、これを打ち負かして、一国平定の大業を成し遂げた。
その目と鼻の先で、おいしそうな獲物がぶら下がっている。無防備な主君と京都である。京都は大義名分の源泉となる。下克上の旨みを知った武略の人が手を出さないわけがない。
大軍で京都を制圧すれば、朝廷を容易に操れる。信長の重臣たちは各地方で強敵と対峙しており、すぐには動けない。将軍・足利義昭も反織田勢力を指揮する意欲に燃えており、「将軍様のために働きます」と申し出れば、多数派工作に乗ってくれるに違いない。
かくして光秀は決起した。
光秀は本能寺で信長を殺害した。
だがその後、光秀は確たる大義名分を全く唱えていない。何の理想もなく、ただ勝算の有無だけによって挙兵したためである。
もし何か真意があるなら、信長を討ち果たした後、その犯行声明を堂々と行なったはずである。だが、光秀は変後に書いた西尾光教宛・6月2日付書状で「信長と信忠の悪逆、天下の妨げを討ち果たした」と伝えているぐらいで、特に動機は述べていない。
独自の政治ビジョンがない光秀は孤立していく
また紀伊雑賀衆の土橋重治宛・6月12日付書状でも動機は述べず、将軍への「御馳走」として参戦するよう促している。これを光秀の動機と見る論者もいるが、軍勢の催促として将軍のために参戦しろと言っているに過ぎないだろう。
なぜかと言うと、光秀は6月9日、もともと自身の娘をその息子(忠興)に嫁がせている長岡(細川)藤孝に「今回の挙兵は、忠興たちを取り立てるつもりで行なったことで、他意はありません。50日から100日のうちには近国も落ち着くでしょう。その後は我が子・明智光慶と忠興殿に政権を譲り、何も口出ししないつもりです」などと、理想も大義もない事実を露呈して口説こうとしているからである。
この時すでに光秀は、多数派工作に失敗して孤立していた。中国地方の羽柴秀吉が大軍を連れて引き返しているのを知っており、絶望の最中にあった。
もはや敗北するかもしれない危機的状況で、現実的な未来を語ることはかえって非現実的となる。こういうときは、空手形の利益を見せつけるより、敗れても名が残るほどの高い理想を訴えるべきだが、そのようなことすら思いつかないのは、本当に何の大義もなかったからだろう。