平成に入ってから少子化の危機感が顕著に
昭和が終わり平成となった頃、少子化は深刻さを増していました。連載1回目でも書いた通り、このころには年間出生数は120万人台へと落ち込みます。第2次ベビーブームからたった一世代で4割もの減少、平成2(1990)年には「1.57ショック」なる言葉も出現しました。前年の出生率が、過去最低だった1966(昭和41)年の1.58を下回り、1.57となっていたことに端を発します。
1966年は干支が「丙午」でした。「丙午生まれの女性は気性が激しく、夫の命を縮める」という迷信があります。これは、江戸時代初期の「丙午の年には火災が多い」という風聞が、八百屋お七(火付けで有名な女性)が丙午の生まれだとされたことから、女性の結婚に関する言い伝えに変化して広まっていったとされています。こうしたことから、1966年には産児調節で出産を避ける人が多くなり、その結果、この年の出生率が極端に落ち込みを見せたのです。
ところが、その丙午の谷さえも、1989年の出生率はあっさり下回ってしまいました。
その出生率をもって「1.57ショック」とマスコミが相次ぎ報じたため、少子化の深刻さを世に知らしめるきっかけになります。
政府もいよいよ出生数アップへの対策を検討するのですが、世論はまだまだ冷淡でした。雇均法の後押しもあり、表面上は女性が男性と伍して働くことがよしとされたため、経済界の反応さえも鈍かったのです。
女性に「働け、産め、育てろ」の三重苦を背負わせる
そうした世情を振り切り、政府がようやく対策に本腰を入れるのは、1994(平6)年のこと。仕事と子育てを両立させる環境を整備するため、文部、厚生、労働、建設の四大臣の合意の下、10年にわたり取り組むべき施策を定めた計画「今後の子育て支援のための施策の基本方向について」(通称エンゼルプラン)が打ち出されます。
続いて、1999(平成11)年には大蔵、自治両大臣が加わった新エンゼルプランも策定されます。2003(平成15)年には議員立法の形で少子化社会対策基本法が制定され、首相を会長とし全閣僚が委員となる少子化社会対策会議が設置されることにもなりました。
ただし、これらの計画が一向に成果を上げない根本的な理由については、政治家は言うに及ばず、
こうした勝手な正論、もしくは、理解なき支援が、2010年代半ばまで続きます。2007年に当時の柳沢伯夫厚労大臣が発した「産む機械」発言※などその象徴といえるでしょう。そもそも、「女性活用」などというまるで牛馬を扱うような言葉が平気で政策に盛り込まれ、進歩的と言われた民主党政権下においてでさえ、悪気なく明記されたものです。
※筆者註:2007年1月27日、島根県松江市で開かれた自民党県議の集会で少子化対策について、「15~50歳の女性の数は決まっている。産む機械、装置の数は決まっているから、あとは一人頭で頑張ってもらうしかない」などと語った。その後、当人からは様々な弁解がなされているが、もし氏が女性の「心」に配慮していたなら、たとえとしてこの言葉は出なかったのではないか。