男社会の身勝手な正論とマッチョ女史の善意の加害
とかく、政治家やマスコミなど「男社会の代表」たる論者は、女性の痛みをわからず、勝手な正論を謳い、理解なき支援を施すものです。「働く女性の支援」と銘打って、女性が働きながら育児や家事ができる環境を整える。つまりそれは女性に「働き、産み、育てる」ことを強要することに他なりません。
一方で、同性(女性)の識者は、進歩的な論調の中で、善意の加害者になってしまうことが、どの時代にもよく見られます。
連載第2回で取り上げた、エレン・ケイが「女の生活の中心要素は母となることである。女が男と共にする労働を女自身の天賦の制限を越えた権利の濫用だとして排斥すべし」と謳ったことなどがその好例でしょう。
どちらも女性を追い詰める意味では同じです。
今回は平成期に入り、急激に熱を帯びた少子化対策が、いずれもうまくいかなかった理由として「理解なき支援と善意の加害」がいかに起きてきたかを詳らかにしていきます。
同性からの「私はそれができたんだから」に戸惑い
前回から見てきたとおり、為政者たる男性が声を発する「理解なき支援」は、そもそも女性から見れば、手前勝手な話であり、反発もしやすいものです。
一方で、同性である女性の、しかも進歩的立場の人から発せられる「善意の加害」には、大いに惑わされることがありそうです。まず、こうした女性識者からの発信は多くの場合、「私はそれができた」という彼女ら自身の体験で実証されていることが多い。加えて、その提言内容は、現状の社会システムにおいては、かなり利得の多い方策でもある。
これは第2回の「らいてう×晶子」論争で、与謝野晶子が説いた「家に入れ、ただし、その家事労働対価は国が払え」という話に、当時のモダンガールたちが熱狂したことからもわかるでしょう。
基本的に、「善意の加害」は、時代と社会を限定した中で成り立つ次善策であり、真理と呼べるものではありません。時代が少し下り、社会条件が崩れると、一気に違和感が噴き出してくるような代物です。いやいや、同時代の女性たちにしても、彼女らが心の底から発する思いとは差があり、きっと言葉にできないモヤモヤが募っていたのではないでしょうか。