指導者に恵まれた大谷選手と佐々木投手
今、アメリカ大リーグで活躍している大谷翔平選手は、高校時代に監督から、「まだ骨が成長段階にあるから、1年生の夏までは野手として起用して、ゆっくり成長の階段を上らせる」という方針を告げられ、変化球などの練習はせず、そのおかげで身長は193cmまで伸びました。思春期後半に再度伸びる足も、十分に伸びることができたものと推察されます。発育段階を考慮した対応のできるこの監督は、本当に優れた指導者であると思います。
さらに、プロ入り3年目の佐々木朗希投手が、完全試合を達成したことは記憶に新しいと思いますが、その佐々木投手は高校生時代、「令和の怪物」と呼ばれながら、岩手大会決勝戦では監督の判断で投げなかったことが大きな話題となりました。「故障から守るため」という理由であったようですが、チームは大敗して甲子園出場はならず、監督への非難が殺到しました。
しかし、この監督の決断が、その後の高校野球のあり方を変え、エースに頼りきる野球、エースと心中するような野球から、投球数の制限なども取り入れられるようになり、継投策で勝つという野球が主流になっていきました(参考:柳川悠二『甲子園と令和の怪物』小学館新書、2022)。
思い起こすと、確かに高校時代の佐々木投手は現在よりさらに細身で、骨がまだ伸びていたように感じます。
高校の監督だった國保陽平氏はアメリカでも野球経験があり、そのときに多くの選手が無理をしてケガに泣き、野球の第一線から消えていった姿を目撃したようです。そうした経験から、佐々木投手のように将来限りなく有望な選手を、高校時代に潰してしまうわけにはいかない、と思われたのでしょう。決勝戦に投げさせないことでどれだけ批判されようと、自分が守らねば、という強い信念を貫いたのだと思います。