共犯者のような気持ちにされる被害者

さて、今、日本社会では「性的グルーミング」という言葉が広く知られるようになりました。これまでもさまざまな事件がありましたが、きっかけの一つは、イギリスのBBCが取り上げた、ジャニー喜多川氏の、元ジャニーズJr.の少年への性加害に関するドキュメンタリーだったのだと思います。私は、その内容について、報道されている以上の詳細は知りません。従って、個別の出来事について何かを言うことはできません。しかし、これまでの、心理学の研究や臨床の知見を踏まえて、性的グルーミングや子どもの性暴力に関する一般的なことを2点、述べていきたいと思います。

一つ目です。BBCの報道では、性的な行為をされたと述べた人々が、しかし、「今でもジャニーさんのことは好きです」「素晴らしい人です」などと、その行為者を慕い続けているという語りが見られました。

自分が信頼し、敬愛する人が自分に暴力を振るった場合、はじめから、困惑や恐怖、嫌悪感を強く抱く人もいます。また、後に、それが暴力だったと気が付き、激しい怒りを抱く人もいます。そして、敬愛する人を悪く思うことがとても難しい、それが暴力だと思いたくない、という人もいます。いずれも、自然な反応です。

特に、「性的グルーミング」では、子どもたちが、あたかも自分たちも共犯者のような気持ちにさせられる場合があります。自分も好きだったから、自分も受け入れたから、信頼する人だったから、だからその人だけが責められることには耐えられない、ということを子どもたちが述べることは、まれなことではありません。

子どもたちが抱く複雑な思い

もちろん、子どもに対して、その信頼を利用して、指導的な立場にいる大人が性的な行為をすることは、性的な搾取です。子どもと大人では、立場も能力も違い、使える社会的な資源も異なります。子どもが大人に逆らうこと、子どもがそれをおかしいと気が付くこと、子どもが大人にその行為はおかしいと伝えることは難しく、そうした状況で行われる性的行為は、性暴力です。子どもに性暴力をする人、そして加害を促進する構造を、社会が許してはいけないと思います。

一方で、その行為をされた子どもたちが抱く/抱かされた、加害行為をした人に対する思いの複雑さは、個別的に丁寧に対応される必要があると思っています。それは、一見すると、「洗脳」や「性的グルーミング」という言葉でひとくくりにされてしまうかもしれませんが、子どもたちは、その行為が暴力であるという事実に直面した時、信頼し敬愛する気持ちと、幸せで楽しかった思い出と、自分もその行動に加担していたような思いと、それを乗り越えてきたという自負と、しかし、大切な人が、自分の感情や意思をないがしろにして性的な行為を行ったということに、自分の心の内側が引き裂かれるような痛みを覚えることもみられます。