トーキョーの大人は「見たいものしか見ていない」
でも、周りを見回しても急激に進む過疎と少子化で、情報を共有できる同世代の相手の絶対数自体が少ない。地方の学級数は、団塊ジュニア時代の4分の1。かつての世代がクラスメイト間で漫画を大量に貸し借りしたりCDを貸し合ったり、親がユルい友達の家でゲームしたり深夜ラジオの感想を翌朝の教室で興奮気味に話し合ったりしたような、カルチャーコンテンツと、それを接点にしたコミュニケーションはオンライン化。
いきおい、友達との会話はLINEになり、見知らぬ都会や日本のどこかの地方都市に住んでいるらしい同じ趣味の誰かと出会うのはTwitterやYouTubeのコメント欄になり、憧れる誰かの日常をInstagramやTikTokで覗き見、そして「東京」や「世界」を見せてくれる大きな窓は相変わらずテレビなのだ。
親や祖父母と仲良くしたり喧嘩したりしながら暮らし(色々な理由で親と住まない子もいる)、行けと言われるから学校へ行き(色々な理由で行かない子もいる)、やれと言われるから部活に励み(色々な理由で励まない子もいる)、その中でスマホやパソコンを通しておっかなびっくり誰かや何かと繋がっていく。そんな彼らは「理解しづらい若者たち」とひとくくりにするにはほど遠い、「あの頃の我々と同じ」子どもたちだ。
いまでは「トーキョー在住で業界最先端の仕事をしております」という顔をしている大人たちにも、大学進学や就職で上京して、かつて自分もそんな地方都市の少年少女だったと思い起こす人は少なくないはずなのだが、そういう大人たちはどこか地方の価値観を背後に捨ててきたものとして、地方の現実は自分がいまトーキョーでの仕事で向き合う対象ではないとして、無意識に目を逸らしている気がする。
トーキョーの大人たちは、見たいものしか見ていない。それは、一つにはトーキョー(近郊)で育った自分の生き方、あるいはトーキョーへ上京してきた自分の生き方に正当化バイアスがかかっているということもあるのではないか。
上京組の「帰省ブルー」
トーキョー人の顔をする大人たちが背後に捨てたもの、それはあえて極言するなら「古き悪しき日本」「その中で育っていた過去の自分」である。お正月やお盆が近づくと、ネット上に必ず(しかもわりと硬めの媒体で)登場する声や記事がある。
大人たちの「帰省ブルー」だ。
結婚して家庭があったり独身だったりはさまざまだが、ようやくコロナ禍も落ち着いた盆暮れということで、田舎へ帰る。すると、老いて背中の小さくなった両親や祖父母や親戚に囲まれ、雑用を頼まれ、酒席で子どもはまだかだの早く結婚しろだの、地元に帰ってくる気は(そして同居する気は)ないのかだの、それに比べて弟の(妹の、従兄弟の、同級生の……etc.)誰々は優しくて立派だの、都会の価値観とは違ってうんざりするような、強固に保守的な田舎ならではの理屈を聞かされる。