岸田文雄首相も小池百合子東京都知事も、年明けすぐに少子化対策の重視を掲げた。コラムニストの河崎環さんは「日本では女性が地方を見限って東京に流出し続けており、こうした現状を直視しないままで少子化対策を考えても効果は上がらない。そしてこれは、米国や欧州で起きているような“分断”が、日本でも起こっていることを表している」という――。
「GENERATION Z」と書かれたメモ
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「Z世代なんて存在しない」

「いまのメディアが定義してもてはやす“Z世代”の条件を満たす若者は、実は日本中に1割も存在しないようだ」という衝撃的な調査報告を聞いたのは、昨年夏のことだった。

それは広告代理店による非公式の報告で、都市部と地方の若者を多様な属性で満遍まんべんなくサンプリングし、その購買パターンやメディア利用などの日常の行動特性、そして正直な価値観(例えば大学のAO推薦入試書類に記入するようなよそいきの価値観ではない、という意味)を抽出したものだった。

すると、いまメディアで、かつての「新人類」という流行語と同じような使いやすさで「Z世代」と呼ばれ、「ネットが当たり前の環境で育ち、SNSを駆使し、テレビや新聞雑誌などのオールドメディアを目にせず、SDGs時代のエコでリベラルで多様な価値観を身に付け、ブランド服やアルコール飲料や車やギラついたモテにそれほど興味がなく、自己発信と議論に長けて柔軟で革新的」とされる若者は、日本全国に9%台しかいなかったのだ。しかも、都会と地方では都会側に偏在していた。

Z世代とくくられるはずの年齢層の若者に、大人たちの言うキラキラした「Z世代」がほとんど存在しない。まして、地方の中高大学生にはほぼいない、レア中のレアキャラ。それは、大人たちが若者に「こうあってほしい」と思う、まぶしくてちょっと自分たちが理解しがたい仮想の若者像を押し付けているだけ、という姿をあぶり出したのだった。

地方の若者はむしろテレビ好き

メディアの大人たちの間では、いまの若者はテレビを見ない、雑誌も読まない、ニュースやドラマや芸能情報含め、コンテンツはすべてネットでしかチェックしない、だから僕たちはとっても苦戦しているんです、というのが定説だ。

ところが、先述の調査では「地方の若者はよくテレビを見ている」「むしろテレビ大好き」ということが判明した。芸能人やお笑い、グルメやカルチャーなどの流行、主に東京という土地に集積しているエキサイティングな情報を広範に効率よく、しかも魅力的な切り口で摂取できるメディアは、いまだにテレビが手軽で好まれており、他のメディアと比べて相対的な依存度が高いということだ。

だが、ネット利用度ももちろん高い。それは、地方に生まれ暮らす若者の日常を想像すればもっともなことだろう。スポーツ選手や芸能人などの優れて美しい人たち、ドラマや映画などのコンテンツにも興味があり、世の中でいま何が流行り、何が起こっているかを知りたい。それを一番に教えてくれるのは先生でも多世代同居している親や祖父母でも親戚でもなく、同級生や部活の先輩後輩だ。

トーキョーの大人は「見たいものしか見ていない」

でも、周りを見回しても急激に進む過疎と少子化で、情報を共有できる同世代の相手の絶対数自体が少ない。地方の学級数は、団塊ジュニア時代の4分の1。かつての世代がクラスメイト間で漫画を大量に貸し借りしたりCDを貸し合ったり、親がユルい友達の家でゲームしたり深夜ラジオの感想を翌朝の教室で興奮気味に話し合ったりしたような、カルチャーコンテンツと、それを接点にしたコミュニケーションはオンライン化。

いきおい、友達との会話はLINEになり、見知らぬ都会や日本のどこかの地方都市に住んでいるらしい同じ趣味の誰かと出会うのはTwitterやYouTubeのコメント欄になり、憧れる誰かの日常をInstagramやTikTokで覗き見、そして「東京」や「世界」を見せてくれる大きな窓は相変わらずテレビなのだ。

親や祖父母と仲良くしたり喧嘩けんかしたりしながら暮らし(色々な理由で親と住まない子もいる)、行けと言われるから学校へ行き(色々な理由で行かない子もいる)、やれと言われるから部活に励み(色々な理由で励まない子もいる)、その中でスマホやパソコンを通しておっかなびっくり誰かや何かと繋がっていく。そんな彼らは「理解しづらい若者たち」とひとくくりにするにはほど遠い、「あの頃の我々と同じ」子どもたちだ。

いまでは「トーキョー在住で業界最先端の仕事をしております」という顔をしている大人たちにも、大学進学や就職で上京して、かつて自分もそんな地方都市の少年少女だったと思い起こす人は少なくないはずなのだが、そういう大人たちはどこか地方の価値観を背後に捨ててきたものとして、地方の現実は自分がいまトーキョーでの仕事で向き合う対象ではないとして、無意識に目を逸らしている気がする。

トーキョーの大人たちは、見たいものしか見ていない。それは、一つにはトーキョー(近郊)で育った自分の生き方、あるいはトーキョーへ上京してきた自分の生き方に正当化バイアスがかかっているということもあるのではないか。

上京組の「帰省ブルー」

トーキョー人の顔をする大人たちが背後に捨てたもの、それはあえて極言するなら「古き悪しき日本」「その中で育っていた過去の自分」である。お正月やお盆が近づくと、ネット上に必ず(しかもわりと硬めの媒体で)登場する声や記事がある。

大人たちの「帰省ブルー」だ。

結婚して家庭があったり独身だったりはさまざまだが、ようやくコロナ禍も落ち着いた盆暮れということで、田舎へ帰る。すると、老いて背中の小さくなった両親や祖父母や親戚に囲まれ、雑用を頼まれ、酒席で子どもはまだかだの早く結婚しろだの、地元に帰ってくる気は(そして同居する気は)ないのかだの、それに比べて弟の(妹の、従兄弟いとこの、同級生の……etc.)誰々は優しくて立派だの、都会の価値観とは違ってうんざりするような、強固に保守的な田舎ならではの理屈を聞かされる。

特に仕事を持つ女性の帰省ブルーは、女性の扱いが低く保守的な風土の地方においては男性の比にならないほど深刻なようだ。娘として、あるいは嫁として、結婚していないことや子どもがいないことにわざわざ触れられ、その年で仕事をしていることを「昔っから勉強だけはできたから」「高学歴な女は田舎を出ていくんだね」などと「謙虚でない(可愛げがない)」「野心が(気が)強い」というネガティブな意味合いであてこすられた女性は、盆暮れの「女の仕事」を手伝わされながらさんざん嫌みを聞かされ消耗した心境をネット上に吐露する。

地方から東京へ、女性の流出が止まらない

出生数80万人割れの衝撃。地方の少子化対策はここがズレている」と題された記事で、ニッセイ基礎研究所の人口動態シニアリサーチャー・天野馨南子さんは、地方の著しい少子化問題の真因は地方を見限った若い女性による東京への人口流出がまったく止まらないことにあると指摘している。

2010年から2019年の10年間の総務省「住民基本台帳移動報告」のデータを分析したところ、47都道府県のうち37エリアで、男女ともに転出が転入を上回る「転出超過」(純減)となっていました。女性が純減したエリアだけでいえば38エリアにのぼります。

この38エリアのうち35エリアで、女性の純減数が男性の純減数を上回っていました。全体では女性のほうが男性の1.3倍、転出超過となっています。

なかでも石川県は女性の転出超過が男性の4.6倍、富山県は3.9倍で、女性の転出超過がとりわけ深刻でした。男性に比べて女性のほうが地元にいづらい何かがある、ということが明確に示唆されているといえるでしょう。


2021年に女性が転出超過だった38エリアを詳しく分析したところ、女性の純減数が多い年齢は22歳が抜きん出て多く、次に18歳か20歳がくるのですが、20歳が次点でくるというのが女性の転出超過の大きなエリアでは多い傾向です。これは大学卒業、高校卒業、専門学校卒業のタイミングとぴったり合っています。

女性の純減全体の32%を占めていたのが、22歳です。大学を卒業するタイミングで地元を出ていく女性を「高学歴の女は仕方ない」と特例のようにとらえている中高年の人たちがいますが、2022年度の学校基本調査によると女性の四年制大進学率は52%で男性の58%とほぼ変わりませんから、もはや四大卒が特別に高学歴だといった実態ではないんです。

また、20歳での転出超過は専門学校卒にとっての就職期にあたります。幅広い学歴の女性に去られていることに気が付かなければなりません。

魅力的な職場もライフスタイルもない

前出の天野さんは、男性を上回る「女性の東京一極集中」の理由を「卒業後の仕事の問題が大きい」「女性たちが就職したいと思えるような魅力的な職場が地元にない」と分析し、地方の少子化とは人口問題というよりも労働問題である、と鋭く指摘する。

若い女性が「ここ(地方)にいたい」と思える職や職場、幸せと感じられるライフスタイルがそこにはないのだ。地方自治体が、東京に向かわず地元に残った女性(相対的に保守的な価値観で、もともと出産傾向にある女性)を相手に「ママを応援しよう!」と漠然とした子育て支援の充実を図るにとどまるのは、少子化対策としてズレている、と天野さんは手厳しい。

「多様な女性を失った代償」としての出生率

同じ女性人口移動の視点で「地方の男性化、都会の女性化」と呼ばれる問題を扱っているのは、十六総合研究所による『提言書2022「女子」に選ばれる地方』(岐阜新聞社)の基調論文「若い女性はなぜ消えるのか?」である。執筆者の十六総合研究所 主任研究員・田代達生さんは、岐阜県という地方の側から見た圧倒的な女子の東京流出を「人口の再生産という面からするといわば最悪な形」と書く。

地方自治体の戦略的KPIとして「合計特殊出生率1.8以上」という数値目標が設定されるが、出生率が全国最低の東京に比べて数値の高く出る地方が本当に効果的な少子化対策を行えているわけではない。

田代さんは「少子化、出生率に着目すると問題の本質がゆがむ」「現実に起きている地方の合計特殊出生率の高さは、リベラルで多様な価値観を持つ女性たちが都会に逃げていき、保守的な女性だけが地方に残った結果(多様な女性たちを失った代償)として達成されている」「多様な女性たちを視野に入れないで、地方が持続可能とはとうてい思えない」と警鐘を鳴らす。そしてその原因が保守的な家族観と、地方へ根強く残されたジェンダーギャップにあると指摘する。

田園風景の中に立つ女性
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日本で静かに進む都会と地方の“分断”

現代的な価値観や能力を備えた女性が地方を見限って東京へ流出し、流出の結果の搾りかすのようにして、古くてそれ以外の生き方に排他的な家族観や強固なジェンダーギャップが地方に取り残される。地方ではそのように閉じた構造の中で「少子化で子どもが生まれないのはどうしたらいいか」と、既に出産傾向の高い属性層を相手に、子育て支援策へ財源が振り向けられる。現代の日本では、そういう持続的とは言いがたい形での人口再生産がメインなのだ。

少子化は、いわゆる先進国病の一つであることには間違いはない。だがこの、東京と地方のそれぞれに様相の異なる少子化構造から感じ取れるのは、人種や階級や経済的地位など、居場所による価値観の対立がこじれて政治や社会に分断を起こした米国や欧州と同様の分断が、一見平穏そうな日本にも都会対地方という形で確実に起こりつつあるということである。

米国では、分断とはこれまでの常識のように政治的思想の左右(保守と革新)なのではなく上下(グローバルセンスのある視野の広い知識階級と、ローカル発想から逃れられない視野の狭い非知識階級)なのだ、という見方がある。それでなくとも統計史上最低の出生数を打った2022年、シュリンクし小さくなる一方の日本社会で「分断」とは、お互い「見たいものしか見ていない」では済まない結末を生みそうだ。