日本では中央集権と地方分権が絶えず綱引きしてきた

その意味で、戦国時代は織田信長と豊臣(羽柴)秀吉によって、「重商主義政策」と「中央集権政策」が強烈に推し進められ、それに対する反発も強くあった時代と言えると思います。それ以前の室町幕府の政治は「守護領国制」と呼ばれていますが、これは全国に配置された守護大名が土地や住民を支配し、彼らの領国支配を通じて幕府が全国を統治するというシステムです。

これは、「農本主義政策」であり「地方分権政策」と言えます。農本主義とは、国家運営の基礎を農業に置く考え方。国内生産と流通で経済を完結させるという発想です。地方分権政策は、国家の統治権を地方政府=地域の勢力(権力)に移管させる考え方です。

黄金色に輝く稲
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ところが、十六世紀の日本は、大航海時代の世界との遭遇という大きな危機を迎えます。こうした危機に際し、日本は国制を転換する必要に迫られます。

秀吉は朝鮮出兵に突き進み、国土を荒廃させてしまった

そこで信長は、重商主義・中央集権体制による国家運営を目指していくようになります。それを非常にうまく引き継いだのが秀吉ですが、秀吉は重商主義・中央集権体制を強力に推進した結果、朝鮮出兵へと突き進むことになり、大破綻をきたしました。

慶長3年(1598)の秀吉の死後、朝鮮出兵は中止されましたが、そのときの日本が置かれた状況は、まさに昭和20年(1945)8月15日と同じだったのではないかと、私は思っています。それくらい日本は荒廃していた。とくに西日本では、出兵に伴う人夫の徴用と、年貢米の負担に耐えかねて、農民が逃散をした村がたくさんありました。逃散した農民は流民となって都市部に流れ込みます。これにより農村は荒廃し、都市部の治安も悪化します。