地域の人と集まり自分たちでイベントを作り上げる喜び
集中力のない子供たちの的の外れた質問に、戸惑いながらも丁寧に対応してくださった地域の先輩方、それをヤキモキしながら見守るわれわれ保護者、そもそもお話をうかがう前に頭を悩ました卒業生の発見作業など、われわれはとてつもない体力とため息と気持ちを使い尽くした。しかし、参集した多くの保護者たちは、このイベントを終えて「疲れた」とは思いつつも、誰一人として「無駄な時間をかけた。業者に頼んでもよかった」と言う者はいなかった。
そこにあったのは、「幸福なる非効率」の実感と、そこで生き、暮らす者たちと集い、共有地平を発見し確認した喜びだった。私たちは、集い、立ち上げ、工夫し、作り、話し、聞き、葛藤し、けんかもして、毎日地域を保護者仲間や子供たちと共に「生きて」いたのである。生きることは外注できない。もしこれに擬するものを業者から購入したなら、学校にも地域にも、人々は参集しなかっただろう。そうする理由がないからだ。
改めて考えたい「何のためのPTAなのか」
旧態依然の前例から1ミリも逸脱せず、「何も考えなくていいから」という理由だけで時代にそぐわない活動を続けてきたPTAにとって、今を生きる者たちの生活の要望に沿った改革・工夫は不可欠である。そのためには、運営を担う者たちは当事者として「自分たちによる合意づくり」を通じて、必要ならば持ちうるリソースで「外注」をすれば良い。
しかし、それは「運営を丸ごと投げる」こととは異なる。必要なのは、自治を助けるスキルと技法である。自治を手放す外注をするなら、議論は「本来行政がやるべきことを民間企業にやらせるのか否か?」という全く別のものとなり、保護者は任意団体を維持し、そこで活動することの根拠を失うことになるだろう。学校応援の選択肢は、「租税か? サービス料か?」だ。この時、PTAの話はなくなる。
だから、われわれに必要なのは「行政も企業も手が届かない何か」を生きる喜びを実感することなのである。
そのためには、「私は居たくてここに居るのだ」という基本の気持ちを抱え持つ「幸福な不平等」と「幸福な非効率」を愛でる人々が必要であり、彼らの出入りが自然に展開する空間と時間こそが、PTA舞台には不可欠であることは言うまでもない。
外注が必要ならばすれば良い。ただし、「注文するか否かを決めるという決定そのもの」は外部に発注できないのだ。それを外注して丸投げするなら、「生きることそのもの」が消費されるだろう。
1962年東京都生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。専修大学法学部教授。民主主義の社会的諸条件に注目し、現代日本の言語・教育・スポーツ等をめぐる状況に関心を持つ。著書に『なぜリベラルは敗け続けるのか』(集英社インターナショナル)、『ええ、政治ですが、それが何か?』(明石書店)などがある。