ベルマーク活動を見直すPTAが増えている。長くPTAの現場を取材してきたフリーライターの大塚玲子さんは「かつて、保護者同士の交流の場を求めた専業主婦に歓迎されたベルマーク活動だったが、交流のニーズが下火になるにつれて活動を強制する圧力が増しPTAは母親たちのわだかまりを生む場となってしまった」という――。
3歳の女の子がハサミで紙を切っている
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いよいよ見直し迫られるベルマーク活動

「ベルマーク活動」と聞いて、あなたは何を思い浮かべるだろう。昭和の母親たちが教室に集い、お茶を飲みながらおしゃべりを楽しむノスタルジックな風景だろうか。平成や令和の母親たちが「20人で半日も作業したのに、たったの3000円!」と憤る、あるいは欠席した母親を別の母親が糾弾する、おどろおどろしい風景だろうか。

過去繰り返し多くの議論を巻き起こしてきたベルマーク活動が、今、いよいよ見直しの時を迎えている。一昨年の春、コロナ禍でPTA活動がストップして以来、これまで続けてきた活動の絞り込みを進めるPTAが全国的に増えているからだ。筆者はこの10年弱、多くのPTAを取材してきたが、ここ1、2年でPTA活動縮小の流れは明らかに加速したと感じる。

最近は、「学校への寄付」を目的とするにしては非効率が過ぎると判断して、ベルマーク活動を廃止するPTAも増えている一方、あくまで「保護者同士の交流の場」として考え、参加強制をやめて「やりたい人だけ」でベルマーク活動を継続するPTAも一部に出てきている。これは、どちらが正しいのだろうか?

答えを出す前に、ベルマーク活動のこれまでを振り返っておきたい。かつてなぜ、ベルマーク活動は日本中のPTAに受け入れられたのか、そしてそれがなぜ強制され、嫌われるものへと変わっていったのか。ベルマークをめぐる状況の変化は、この国の母親たちが置かれた状況の変化でもある。

ベルマークが専業主婦に歓迎されたワケ

「ベルマーク活動」が始まったのは1960年、高度経済成長期の只中だ。冷蔵庫や洗濯機など、家事負担を軽減する製品が多くの世帯に普及し、主婦、母親たちに時間の余裕が生まれた時代でもある。

母親たちは、交流の場を求めた。社会進出を認められず家庭におさまった、けれど本当はいろいろなことをやりたかった女性たちにとって、おしゃべりは数少ない楽しみの一つだったかもしれない。PTAは、当時の多数派だった専業主婦のニーズに応える側面をもっていた。

だが、ただ学校に集まってお茶を飲んでおしゃべりをするだけではバツが悪い。場所を提供してくれる学校に対しても、家で目を光らせている姑に対しても、油を売っていると思われないよう、何かしらの「エクスキューズ」が求められた。

そこへ登場したのがベルマークだった。ベルマーク活動は、おしゃべりをしながら作業することで、自校に寄付する備品をゲットし、僻地の学校を支援できる。これを掲げれば、平日日中、堂々と学校に集まりやすくなる。

かくしてベルマークは昭和の時代の母親たちに歓迎され、全国のPTAに広まったものと考えられる。