実務的な仕事が好き。私生活でも「趣味は料理」だが、結婚していて家庭があるから料理をするわけではなく、作ることに集中できるからだという。そんな木島さんは、コールセンターの立ち上げという大きな仕事を経験した後、企画部門に異動。そこで挫折を経験する。任されたのは顧客満足度を上げるために企画を考え現場に提案する仕事だったが、手ごたえを感じられず、「みんなにも響かないだろうなと思いながら推進したので、やはり響きませんでしたね」。成果を出せず、再びコールセンターへ。企画部で学んだ顧客満足度アップに関する理論が、コールセンターの仕事では役立った。

2002年、母と香港旅行
2002年、母と香港旅行

そして、39歳で課長に昇進。

「管理職を目指してはいなかったのでびっくりしましたが、ほかならぬ、私を厳しく育ててくれた女性の上司から昇進を告げられたので、自然な流れで受けることができました」

20年前のことだが、そのときすでに社内には女性管理職のロールモデルがいた。その後も部長、そして執行役員へと昇進していくが、日本企業に勤める同世代の人とは違って「女性初」だったことはない。

「私の1世代上に昇進した女性が何人もいらっしゃるので、私はその後を追いかけるだけ。だから、プレッシャーは感じませんでしたね」

被災地対応と日本法人化。前例のない仕事に苦戦

外資系は男女格差が小さいといわれるが、ダイバーシティで一歩先を行く環境で順調にキャリアを重ねた。最大のピンチは2011年の東日本大震災発生時。被災地で保険金を必要とする人が急増する中、契約管理事務企画部長だった木島さんは、被災地対応のかじ取りを任された。

「被災地に住む約120万人の契約者に一刻も早くお見舞い文書を送りたいと考え、社長に提案したのですが、『これじゃダメ』と却下されました。他の保険会社や金融庁の動向を踏まえず単独で突っ走ってしまったので、私の進め方が悪かったのです」

お見舞い文書と津波の被害を受けた地域の契約者の安否確認。そのミッションが終わるまでには約1年かかった。おにぎり持参で誰よりも早く出社し、夜までぶっ通しで働いた。「やらなければいけないことがあるときはハイテンションで突き進むタイプなので、周りは迷惑していたかも」と当時を振り返る。「どんなに困難な仕事でもきっと終わりは来る」と信じて、危機を乗り越えた。

さらに、会社を18年度に日本法人化するための仕事を任される。これまで上の世代が取り組んでは頓挫してきた改革だった。実現するには日本の会社法に基づき、取締役会を設置し株主総会を開くなどのガバナンス整備をしなければならない。

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