被害者が受けたいじめ、辱め

繰り返された「皆さまに不快な思いを」に対し、そんな性犯罪めいたことをして「不快」じゃ済まないだろう、無責任だ、という声がある。

香川は「あんなことをしてごめんなさい」と行為について謝罪したのではなく、あくまでも「そんな報道があったこと」「皆さんのお気持ちを悪くさせたこと」について謝罪したのだ。このことは今後、香川サイドが事実関係をきちんと法的に整理する余地を残したことを匂わせる。

だけど、この「不快」というぼんやりした言葉ほど、確かに今の世間の気分を言い当てる言葉はないんじゃないかと感じている。

報道がどこまで事実かは今後精査されていくべき問題ではあるが、ブラを剥がしてみんなで嗅ぎ回して、何もつけていない胸を触られるという場面を想像すると、「香川照之とはそういうことをする人間だったのか」と人間性に疑問が湧き、がっかりと失望し、そういう俳優の演技やバラエティ出演を喜んで見ていた自分たちの「人を見る目のなさ」が悔やまれ、実に不快だ。自分がブラを剥がされたのではないけれど、ワイドショーや記事で何度も繰り返されるこの件を見て喚起される感情は、たしかに傲慢な行いへの「不快」なのである。

しかし性被害を受けた者にとっては「不快」などという言葉では済まされない傷になる。それはハラスメントなんてフワッとした横文字の「嫌がらせ」じゃなくて、相手の尊厳を踏みにじり嘲笑あざわらう「いじめ」「はずかしめ」だからだ。自分よりも力のあるものに、性的にいじめられる。それはPTSDを負ってしかるべき、自尊心を傷つけられるということだ。

しかも相手はその行為に快を感じ興奮しているから、相手の中ではその記憶は醜悪でもなんでもない、むしろ逆の認識であることすらある。「え、なんでそんなにキレてんの?」「ノリじゃん」などと加害者は覚えていなくても、被害者は時に人生賭けて復讐しようと思うほどの怒りに打ち震える。

暗い寝室に座っている落ち込んだ女性
写真=iStock.com/kitzcorner
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自尊心を踏みにじる行為

以前、女性アナウンサーの先駆けたる方にインタビューしたことがあった。後悔していること、キャリアで学んだことをうかがったら、若き日のご自身の苦闘を振り返って「誰もが心の真ん中に自尊心を飼っている。その自尊心を傷つけたら、何倍にもなって返ってくるんです」と、その人は美しい声で言った。

人間は、自分のことに精一杯になるあまり傲慢になることがある。他者をあなどり、尊厳を踏みにじり、覚えていないことすらある。生きる上で、自分自身のあり方には気をつけなければならないという話だった。

昨今、さまざまな業界で報道されるパワハラやセクハラの本質は、「力の差を利用したいじめ」、誤魔化ごまかすことなくそういうことなのだと思う。一寸の虫にも五分の魂、を強く実感しているだろう香川こそ、本当は踏みにじってはいけない他人の自尊心だったのではないのか。

それは倍返しどころか、10倍にも100倍にもなって返ってくる。

河崎 環(かわさき・たまき)
コラムニスト

1973年、京都府生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。時事、カルチャー、政治経済、子育て・教育など多くの分野で執筆中。著書に『オタク中年女子のすすめ』『女子の生き様は顔に出る』ほか。