ドラマ「ブギウギ」(NHK)で描かれるように、笠置シヅ子の歌手引退(1957年)を周囲は歓迎しなかったのか。ノンフィクション作家の砂古口早苗さんは「ドラマとちがって、笠置シヅ子は楽曲を提供してきた服部良一にも、誰にも相談することなく、自分ひとりで引退を決めた。服部は、笠置が1985年に死去したときは『見事な引き際』とコメントしたが、引退当時は自分の曲が忘れ去られてしまうという怒りを感じたようだ」という――。

※本稿は、砂古口早苗『ブギの女王・笠置シヅ子』(潮文庫)の一部を再編集したものです。

盟友の淡谷のり子は「笠置さんはズルイ」と皮肉を言った

1930年代の淡谷のり子
1930年代の淡谷のり子(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

笠置が歌手引退宣言をし女優に転身したとき、「笠置さんはズルイ。目先を利かせて、うまいこと看板を塗り変えたわね」と言ったのは淡谷のり子だと思われる。

笠置と7歳年上の“ブルースの女王”淡谷のり子は、ともに服部良一に“女王”として世に送り出された先輩後輩の関係である。

この先輩は実にたのもしく生活力が旺盛で、人を見る目が鋭く毒舌家だった一方で、何事にも裏表がなく姉御肌という人徳もあり、戦後は“歌謡界のご意見番”として存在感を増していく。淡谷は笠置が戦後“ブギの女王”となってから、マスコミで堂々と笠置の批評・批判を繰り返した。その一つ、「東京ブギウギ」が大ヒットした1948年1月、週刊誌で淡谷が笠置をこう評している。

「最近人気が湧き、自分でも“日本一”のつもりでいるようですが、未だ苦しそうで、日本人の誤ったジャズ観が、あの人を台なしにしてしまうような気がします。私と合舞台で邦楽座ではじめて一本立ちでデビューしたころのあの人がなつかしく思われます」
『週刊朝日』1948年1月18日号「笠置シヅ子流行歌手」

若い頃は笠置に「日本一のつもり?」とイヤミを言った淡谷

この合舞台というのは、1941年に笠置がSGD(松竹楽劇団)を退団後、独立してすぐに服部良一の計らいで淡谷と笠置が邦楽座で上演した「タンゴ・ジャズ合戦」を指している。タンゴを淡谷、ジャズを笠置が歌ったのだろう。淡谷はそれを懐かしく思い出し、先輩歌手として後輩の声を心配しているようだが、それにしてはちょっとイヤミだ。

記事ではこの淡谷のコメントに続き、服部良一が笠置をこう評しているのが面白い。

「地声そのままの歌い方は、とかくの批評もあるが“日本的”というただし書きつきで、やはりジャズシンガーの第一人者だろう。弟子としても、実にかわいい。ぼくの歌だけしか歌わぬところなど、当否は別として、うれしい」
『週刊朝日』1948年1月18日号「笠置シヅ子流行歌手」