競わされ疲弊した子どもたちのその後
親は、大人は、成長の只中にある子どもを戦わせて、そこに何を投影しているのか? それは大人が自分の承認欲求を満たす代理戦争ではないのか。そんな大人が、本当に人生を喜び楽しめる、幸せな人間を育てていると言えるのか。
私は、そんな大人たちの思惑に素直に従ってしまった幼い子どもたちが競わされ、疲弊していくのを見るのが悲しい。世代的に一番のボリュームゾーンで、ずっと受験戦争を闘わざるをえなかった私の周囲には、並べられて比べられ、順序をつけられ、「自分の人生はつまらない」「自分にはそれほど価値はない」と思い込んでしまう子どもたちばかりがいたからだ。
だから、そんな彼らが(私も)大人になって、ふと自分から興味を持ってスポーツや勉強や習い事を始めると、驚くような発見があるのだ、ということを伝えたい。競争しなくてもいい、他人のためでなく自分のためのスポーツや勉強は「超楽しい」のである。
競わされ、評価される子ども時代、自分の成績が良い科目は好きで、成績の悪い科目は嫌いになるものだ。私などは子どものころ、本ばっかり読んでいる体育「超」大っ嫌い女子で、体育祭なんかもうお葬式気分だったけれど、大人になってハマったフィットネスで週3回汗を流し、体を動かすってこんなに楽しかったのか、もっと若い時に知っておけばよかったな、と思う。こんなに体を動かすことが好きになるなんて、別人だな……と感じながらプロテインを飲む日々だ。
為末大氏が指摘するように、「子どものときに、勝ち負けではないスポーツのおもしろさを感じている」か? スポーツでも勉強でも、勝ち負けの評価で成長過程の子どもたちを取捨選択し、大人のエゴで「20歳過ぎたらただの人」になる神童を量産する社会は、病んでいると思うのである。
1973年、京都府生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。時事、カルチャー、政治経済、子育て・教育など多くの分野で執筆中。著書に『オタク中年女子のすすめ』『女子の生き様は顔に出る』ほか。