全日本柔道連盟が小学生の全国大会を廃止した。偏った勝利至上主義を見直す目的だ。コラムニストの河崎環さんは「大人は、成長の只中にある子どもを戦わせて、そこに何を投影しているのか? それは大人が自分の承認欲求を満たす代理戦争ではないのか」という――。
柔道着を着用し、正座で先生の話を聞く子供たち
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小学生の全国大会を廃止した柔道界

「行き過ぎた勝利至上主義が散見される」。全日本柔道連盟が小学生の全国大会を廃止した。スポーツ界では今、ジュニア指導の偏った勝利至上主義を見直す動きが出ている。

体罰や怒号などが常態化し、激しい指導によってまだ体のできていない成長期の選手をむやみに早熟させ、勝たせる。だがそれが選手生命を短期化し「潰す」結果を招いてしまう、これまでのスポーツ指導への反省だ。

小学生柔道の全国大会廃止について、元陸上選手でオリンピアンである為末大氏のコメントが話題となった。

「日本は若年層レベルの全国大会が多くて、かつ、とても過熱しています。良い面もありますが、結果的に伸び悩むケースをたくさん見てきました」

「五輪に行くような選手は背が高く、晩成型が多いです。将来活躍しそうな人が中学ではまだ勝てない、という実情があります。一方で、中学チャンピオンは早熟型が多い」

「早く育てようと思うと、『いいからやれ』が一番きくんです。(中略)でも、長く、高く育てようと思うと、それが弊害になり、自分でどうしたらよいのかを考えられない選手になってしまう」

「日本では、勝ってスポーツが大好きになった人以外は、大嫌いになる傾向があります。若年層からの全国大会の勝ち抜きシステムが、勝てない子にとって楽しくない仕組みだからです。子どものときに、勝ち負けではないスポーツのおもしろさを感じていることが大事だと思うのです」

人間を育てているはずが、人間を潰す教育になってはいないか。目先の勝利ではなく未来から逆算して考える為末氏のメッセージに、SNSでは多くの賛同が集まった。

「殴られ、怒鳴られて強くなる」のは本当か

だが、全てのアスリートやスポーツ関係者が同じ意見を持つわけではない。今回、柔道界がジュニア層の指導見直しへ至った経緯の根本には、2010年代からたびたび報道され、問題視されてきた競技中の事故や体罰指導、ハラスメントなど、競技体質への危機感があった。

セクハラにせよパワハラにせよ、ハラスメントの問題の本質とは、自由度や選択肢の多さに傾斜のある関係性で、「持てる者」が「持たざる者」へ何らかの押し付けをすることである。

自分より年齢が上で体も大きい指導者や先輩と子どもとでは、指導のつもりのコミュニケーションでも、やり方によってはハラスメントになりうる、ということを、私たちはこの約10年間のさまざまな報道から学んできた。それは2020東京五輪を見据えた、価値観のグローバルスタンダード化と無縁ではなかっただろう。

だが、教育でも子育てでも成人してすらも、日本のあらゆる場所で、一種の成功者バイアスによる体罰容認論は根強い。スポーツ界では、その傾向は顕著だ。「自分は監督に殴られ、怒鳴られ、厳しい指導をしてもらったからプロになれた」「世界大会で優勝できた」「オリンピックに出られた」という、成功者ゆえに自らの歩みを正当化してしまう、認識の偏りである。

「勝ってきた人間」にはわからない

「勝ってきた」実績があるため、そういった人材が指導者となり、自らの輝かしい実績を根拠に自分が受けたやり方で次世代を育成してしまいがちで、そういうスパイラルを絶つことは難しい。仮に過去への反省から旧弊な指導をやめていても、例えば個人やチームが勝てなくなると、周囲から「もっと厳しくしないから勝てないんだ」「子どもは体罰を与えないと体で覚えないんだから、厳しい指導が必要なんだよ」と責める声が上がるのが実情だ。

「勝てない指導法はダメな指導」とするのは、まさにスポーツの勝利至上主義であり、勝てない者以外を認めないスポーツなのである。そういったスポーツ価値観こそが「体育嫌い」を大量に生み、人々を遠ざけていることに、「自分自身が勝ってきた人間」はなかなか気づけないし、気づいても実践できないものだ。

日本の女子バレーボール界も、オリンピック出場をピラミッドの頂点に戴く体罰主義指導の最たるものとして語られてきた。自らもその指導の下でオリンピック出場を果たした、元日本代表・益子直美氏は「監督が怒らないバレーボール大会」を小学生対象に開催し、勝利至上主義でなく楽しむスポーツで裾野を広げている。優れたアスリートが成功者バイアスから脱却するのは、画期的なことなのだ。

黒板に描かれたいろいろな「勝利」と表彰台
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15歳、ワリエワ選手のドーピング疑惑

北京五輪のフィギュアスケート女子で、ライバルをあきらめさせるほどの実力を持つため「絶望」との異名を持つ、ROC(ロシア・オリンピック委員会)15歳のカミラ・ワリエワ選手が組織的ドーピングを疑われた話は、記憶に新しい。ロシアのフィギュア界が選手の若年化と強化を図るのは、日本選手の若年傾向に合わせた国策変更の末、との報道もあった。

競技によっては、子どもの細くて軽い体は勝つために有利とされる。そんな競技では、勝利至上主義を大人が放棄しない限り、若年層指導は過熱するばかりだ。「成長したくない」「女性らしい体になるのが怖い」と、思春期になって伸び悩み、潰れていく選手たちは少なくない。現に、ワリエワ選手が北京五輪後に勝てなくなったのを、ロシア国内では「思春期に入って体が変わり、軽やかに動けなくなったからだ」とする声が上がっているという。

そんな大人たちの声にさらされた少女は、自分の成長を喜べるだろうか。大人の女になってしまうことを憎み、成長を恐れて生きるのではないだろうか。そんな歪んだ「神童崇拝」のどこが、人間教育なのだろうか?

スポーツだけではない「神童崇拝」

文化的風土もあるのだろうが、日本ではスポーツも、受験も、芸能界も、独特の神童崇拝が通底しているような気がする。「まだ若いのにこんなことができる」という話はマスコミで猛烈に歓迎されるし、芸能界でも、海外の視線から見ると病的なロリータ指向ではないかと懸念されるような「未成熟さ」を売りにするタレントがもてはやされ、消費される。少子化による習い事ブームも、たとえばスポーツ、たとえばダンスや歌、たとえば受験勉強だって、始めるのが早ければ早いほど「すごい」と感じる風潮を加速している。

「(外形が)幼いのに、こんなことができる」ということを大人が喜び、早熟な子どもが褒められる。それが結果として、子どもにどんなメッセージを植え付けているのか、一度立ち止まって考えてみることが必要だ。「大人になるのは不利だ」「大人になりたくない」。子ども、特に若い女性が成長を拒否する心理の表れとして苦しむ病も、社会問題となっている。摂食障害である。彼女たちの多くの中に、親子間の関係性のこじれ、特に過干渉な母親の支配への憎悪が隠れていたのは、偶然の符合ではない。

競わされ疲弊した子どもたちのその後

親は、大人は、成長の只中にある子どもを戦わせて、そこに何を投影しているのか? それは大人が自分の承認欲求を満たす代理戦争ではないのか。そんな大人が、本当に人生を喜び楽しめる、幸せな人間を育てていると言えるのか。

私は、そんな大人たちの思惑に素直に従ってしまった幼い子どもたちが競わされ、疲弊していくのを見るのが悲しい。世代的に一番のボリュームゾーンで、ずっと受験戦争を闘わざるをえなかった私の周囲には、並べられて比べられ、順序をつけられ、「自分の人生はつまらない」「自分にはそれほど価値はない」と思い込んでしまう子どもたちばかりがいたからだ。

だから、そんな彼らが(私も)大人になって、ふと自分から興味を持ってスポーツや勉強や習い事を始めると、驚くような発見があるのだ、ということを伝えたい。競争しなくてもいい、他人のためでなく自分のためのスポーツや勉強は「超楽しい」のである。

競わされ、評価される子ども時代、自分の成績が良い科目は好きで、成績の悪い科目は嫌いになるものだ。私などは子どものころ、本ばっかり読んでいる体育「超」大っ嫌い女子で、体育祭なんかもうお葬式気分だったけれど、大人になってハマったフィットネスで週3回汗を流し、体を動かすってこんなに楽しかったのか、もっと若い時に知っておけばよかったな、と思う。こんなに体を動かすことが好きになるなんて、別人だな……と感じながらプロテインを飲む日々だ。

為末大氏が指摘するように、「子どものときに、勝ち負けではないスポーツのおもしろさを感じている」か? スポーツでも勉強でも、勝ち負けの評価で成長過程の子どもたちを取捨選択し、大人のエゴで「20歳過ぎたらただの人」になる神童を量産する社会は、病んでいると思うのである。